その他事件の一覧(44件)・2ページ目
種別「その他」の事件を発生日の新しい順に掲載しています。
「その他」には、上記いずれの種別にも当てはまらない事件を分類しています。クーデター未遂や政治的な騒乱、脱獄、誤認逮捕など、性質の異なる事件が含まれます。掲載事件は、判決文や国立公文書館・国会会議録などの公的資料、信頼できる報道機関の記事に基づき事実関係を確認したうえで記録しています。
44 件
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第一次羽田事件
1967年(昭和42年)10月8日、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問阻止を掲げる学生ら約2500人が東京都大田区の羽田空港周辺で機動隊と衝突し、京都大学生の山﨑博昭(当時18歳)が死亡した事件。戦後の学生運動が実力闘争へと転じる象徴的な事件として、その後の運動に大きな影響を与えた。
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サリドマイド事件
睡眠薬や胃腸薬に含まれていたサリドマイドを妊娠初期に服用した母親から、手足や耳などに障害のある子どもが生まれた薬害事件。西ドイツでは1961年11月に製品が回収されたが、日本では販売が続き、1962年(昭和37年)5月に出荷が停止され、9月に販売停止と回収が発表された。認定された被害者は309人に上る。被害者の家族は国と製薬会社を相手に訴訟を起こし、1974年10月13日の和解確認書で、国と大日本製薬は因果関係と責任を認めた。事件は新薬の承認の厳格化や副作用報告制度、医薬品副作用被害救済制度の創設の契機となった。
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安保闘争死亡事件(樺美智子さん)
1960年(昭和35年)6月15日、新安保条約批准に反対する全学連主流派のデモ隊が国会構内に突入し、警官隊と衝突した。この混乱の中で東京大学生の樺美智子さんが死亡した。
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長崎国旗事件
1958年(昭和33年)5月2日、長崎市の浜屋百貨店4階で開かれていた日中友好協会長崎支部主催の中国切手・切り紙展覧会で、右翼団体に所属する28歳の男が会場に掲げられていた中華人民共和国国旗(五星紅旗)を引きずり降ろした。日本政府は中華人民共和国を国家承認していなかったため、外国国章損壊罪は適用されず、男は器物損壊の容疑で書類送検された後、軽犯罪法違反で科料500円の略式命令を受けた。中国側は日本政府の対応を強く批判し、5月9日に対日貿易の中止を声明、以後約2年半にわたり日中間の貿易が途絶えた。のちに公開された台湾側の外交文書により、在長崎の中華民国領事館と右翼団体の連絡が事件の背景にあったことが明らかになっている。
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吹田・枚方事件
1952年(昭和27年)6月24日から25日にかけて、朝鮮戦争開戦2周年を機に大阪府北部で起きた二つの公安事件。枚方市では24日未明に旧陸軍工廠の枚方製造所で水圧ポンプが時限爆弾で爆破され、25日未明には無関係の民家が火炎びんで襲撃された(枚方事件)。吹田市一帯では労働者・学生・在日朝鮮人らのデモ隊が国鉄吹田操車場に入り、警察官と衝突した(吹田事件)。吹田事件は血のメーデー事件・大須事件と並ぶ戦後三大騒擾事件の一つとされ、111人が騒擾罪で起訴されたが、1972年3月17日の最高裁決定で騒擾罪の不成立が確定した。
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菅生事件
1952年(昭和27年)6月2日、大分県の菅生村駐在所が爆破され、日本共産党員5人が逮捕・起訴された事件。控訴審の過程で、偽名で被告人らに接近していた人物が現職の警察官だったことが判明し、駐在所爆破については1958年に福岡高裁が全員を無罪とし、1960年に最高裁で確定した。一方、ダイナマイトの不法所持などの事実では被告人の一部が有罪とされ、潜入していた警察官も爆発物取締罰則違反で起訴されて有罪(刑の免除)となった。
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辰野事件
1952年(昭和27年)4月30日未明、長野県上伊那郡の辰野警察署や伊那税務署など複数の官公庁施設が、ダイナマイトや火炎瓶で相次いで襲撃された。長野県警察は日本共産党員13人を逮捕・起訴し、1960年の第一審・長野地方裁判所飯田支部は全員を有罪としたが、1972年12月1日、東京高等裁判所は証拠不十分として逆転無罪を言い渡し、検察も上告を断念して無罪が確定した。発生から確定まで20年7か月を要した、戦後の冤罪事件の一つとされる。
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東大ポポロ事件
1952年(昭和27年)2月20日、東京大学本郷キャンパスで開催された劇団「ポポロ」による演劇発表会に、私服警察官4人が観客として潜入していたことが発覚し、東京大学の学生が警察官に暴行を加えた。学生の行為が正当防衛にあたるかが争われ、最高裁判所大法廷は1963年、大学における学問の自由・大学の自治の憲法上の意義を示す判断を示した。
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人民広場事件
1950年(昭和25年)5月30日、占領下の東京・皇居前広場で開かれた「人民大会」の際に起きた、占領軍兵士への暴行事件。進駐軍が検挙した8人は占領軍の軍事裁判にかけられた。事件後、総司令部(GHQ)の指示により警視総監は6月2日から都内の集会・デモ行進を全面的に制限し、同様の措置は国家地方警察を通じて全国に広がった。政府は翌1951年、この事件を動機として国民公園管理規則を改正し、皇居前広場での政治的・宗教的な目的の集会を許可しないこととした。事件は1951年のメーデーの会場使用が許可されなかった大きな理由ともされた。国会では「五月三十日事件」とも呼ばれた。
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松川事件
1949年(昭和24年)8月17日未明、福島県信夫郡金谷川村(現・福島市松川町金沢)の東北本線松川駅〜金谷川駅間で、旅客列車が脱線転覆し、機関車の乗務員3人が死亡した。線路のレールと継目板が外されていたことから、何者かによる列車妨害と判断された。捜査当局は国鉄と東芝松川工場の労働組合員20人を逮捕・起訴し、一審は全員有罪、5人に死刑を言い渡した。しかし検察が提出していなかった「諏訪メモ」が被告人のアリバイを裏づけたことなどから審理は覆り、1963年(昭和38年)9月12日に全員の無罪が確定した。真犯人は特定されないまま公訴時効を迎えている。
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三鷹事件
1949年7月15日夜、東京都三鷹町(現・三鷹市)の国鉄三鷹駅構内で、三鷹電車区に停車中だった無人電車が暴走し、車止めを突破して駅前商店街に突入・脱線した。6人が死亡、20人が負傷し、下山事件・松川事件と並ぶ「国鉄三大ミステリー事件」の一つとされる。関係者10人が起訴されたが、裁判所は元運転士1人の単独犯行と認定した。最高裁判所大法廷は1955年6月22日、8対7の1票差で上告を棄却し、同年12月23日に元運転士の死刑が確定した。
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庭坂事件
1948年(昭和23年)4月27日未明、福島県庭坂村(現・福島市)の奥羽本線赤岩-庭坂間で、青森発上野行きの上り急行旅客列車が脱線転覆し、機関士・機関助士と、たまたま便乗していた技工の3人が死亡した。現場ではレールの継目板や犬釘が抜き取られており人為的な線路破壊が疑われたが、犯人は特定されないまま迷宮入りとなった。手口は翌年発生した松川事件と酷似しており、両事件の関連を指摘する研究もある。
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渋谷事件
1946年(昭和21年)7月19日夜、東京都渋谷区の渋谷警察署前で、警察官・暴力団関係者の連合隊と、武装した在日台湾人グループとの間で銃撃戦が発生した。警察官1人と在日台湾人が死亡し、双方あわせて多数の負傷者を出した。同年12月、占領目的阻害罪により関係者に有罪判決が言い渡された。
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徳島大空襲
1945年(昭和20年)7月4日未明、アメリカ軍のB29爆撃機が徳島市を焼夷弾で攻撃した空襲。徳島市は6月1日から7月24日までに7回の爆撃を受けたが、なかでもこの7月4日の空襲の被害が最も大きく、徳島市によると市内(当時)の62%が焦土となり、死者約1,000人、重軽傷者約2,000人を出した。官公庁や学校、工場などのほとんどが焼失した。毎年7月4日には、遺族会による徳島戦災死没者追悼式が開かれている。
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高松空襲
1945年(昭和20年)7月4日未明、アメリカ軍のB29爆撃機116機が香川県高松市を焼夷弾で攻撃した空襲。午前2時56分から4時42分までの106分間に、高性能爆弾24トンと焼夷弾809トンが投下され、市街地の約80%が焼失した。総務省と高松市によると、死者1,359人、負傷者1,034人、行方不明者186人、罹災者8万6,400人にのぼった。同じ夜には徳島や高知、姫路も空襲を受けた。
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十・十空襲
1944年(昭和19年)10月10日、アメリカ海軍機動部隊が沖縄をはじめとする南西諸島各地を9時間にわたり波状的に空襲した「十・十空襲」。延べ1396機の艦載機が爆弾・焼夷弾を投下し、那覇市街地の約9割が焼失した。民間人を含む少なくとも668人が死亡し、768人が負傷したとされる。
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崑崙丸沈没事件
1943年(昭和18年)10月5日未明、関釜連絡船「崑崙丸」が、山口県下関から朝鮮半島釜山への航海中、福岡県沖ノ島沖でアメリカ海軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した事件。衆議院議員2人を含む583人が死亡・行方不明となった。太平洋戦争下、日本の民間船舶が受けた被害の大きさを象徴する事件の一つ。
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「生きてゐる兵隊」筆禍事件
1938年(昭和13年)2月18日、雑誌『中央公論』3月号に掲載された石川達三の小説「生きてゐる兵隊」について、内務省が発売頒布禁止処分を通告した。同作は南京攻略戦に加わった兵士への取材を基に、日本軍将兵による非戦闘員の殺戮などを描いており、著者と編集長・発行人は新聞紙法違反で起訴され、同年9月の一審判決で石川と編集長は禁錮4か月・執行猶予3年、発行人は罰金刑を受けた。
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二・二六事件
1936年(昭和11年)2月26日未明、国家改造を唱える陸軍皇道派の青年将校らが約1,400人の下士官・兵を率いて蜂起し、首相官邸・陸軍省・参謀本部・警視庁など永田町・三宅坂一帯を占拠したクーデター未遂事件。斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監のほか、首相と誤認された松尾伝蔵首相秘書官と護衛の警察官5人が殺害された。反乱は29日に鎮圧され、首謀者らは特設軍法会議で裁かれた。この事件を境に軍部の政治的発言力が強まり、戦時体制への転換点となった。
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五・一五事件
1932年(昭和7年)5月15日、海軍青年将校らが陸軍士官学校生徒らとともに首相官邸・警視庁・日本銀行などを襲撃し、内閣総理大臣・犬養毅を殺害したクーデター未遂事件。実行犯らは軍法会議・一般裁判で裁かれたが軍人には比較的軽い刑が科され、世論の同情も相まって政党政治への不信が広がった。この事件を最後に戦前の政党内閣は途絶え、軍部主導の政治体制への転換点となった。
出典: https://jiken.jp/category/other/?page=2(2026-10-30 取得)/ 事件JP