五・一五事件
| 発生日 | 1932年5月15日(昭和7年) |
|---|---|
| 経過 | 発生から94年2か月 |
| 発生場所 | 東京都 千代田区(首相官邸) |
| 種別 | その他 |
| 状態 | 判決確定 |
| 被害 | 死者 1人 |
1932年(昭和7年)5月15日、海軍青年将校らが陸軍士官学校生徒らとともに首相官邸・警視庁・日本銀行などを襲撃し、内閣総理大臣・犬養毅を殺害したクーデター未遂事件。実行犯らは軍法会議・一般裁判で裁かれたが軍人には比較的軽い刑が科され、世論の同情も相まって政党政治への不信が広がった。この事件を最後に戦前の政党内閣は途絶え、軍部主導の政治体制への転換点となった。
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事件の経過
1932年5月15日夕刻、海軍青年将校らのグループが首相官邸に侵入し、犬養毅首相に面会。犬養が「話せばわかる」と説得を試みたが、将校の一人が「問答無用、撃て」と叫び、拳銃で頭部を撃ち、犬養は翌16日未明に死亡した。同時刻、別の一団が警視庁・立憲政友会本部・日本銀行などにも手榴弾を投げ込むなどの襲撃を行った。
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背景と裁判
昭和恐慌による経済の疲弊や農村の困窮を背景に、政党政治や財閥への不満が軍の一部青年将校の間で高まっていた。事件後、実行犯らは軍法会議・一般裁判にかけられたが、減刑を求める嘆願運動が全国で広がり、軍人の量刑は比較的軽いものにとどまった。
事件の影響
この事件により、犬養毅内閣を最後に戦前の政党内閣は途絶え、以後は軍人や官僚を中心とする「挙国一致内閣」が続いた。政党政治の終焉と軍部の発言力拡大の画期として、四年後の二・二六事件へとつながる流れの中に位置づけられる。
動機の背景と裁判の詳細
事件の背景には、1930年のロンドン海軍軍縮条約をめぐる「統帥権干犯」批判もあった。条約に不満を持つ海軍将校の一部はこれを機に政治への関与を強め、事件当日には陸軍士官候補生や、東京市内の変電所を襲撃して送電線を破壊した橘孝三郎率いる愛郷塾の同志らも同時多発的な行動に加わった。裁判では、陸軍関係者11名が1933年9月19日に禁錮4年、海軍側は同年11月9日に主犯格の古賀清志・三上卓ら元海軍中尉に禁錮15年などの判決を受けたが、いずれも検察側の求刑を大きく下回り、被告への減刑を求める嘆願書は全国から10万通以上寄せられたとされる。首相暗殺を受け、元老西園寺公望は政党内閣の継続を断念して海軍出身の斎藤実を後任に推薦した。
歴史的評価
五・一五事件は、軍人によるテロが政権交代を引き起こし、司法が加害者に寛容な判決を下した点で、後の二・二六事件(1936年)に連なる昭和期テロリズムの先駆けと位置づけられる。実行犯への同情世論と軽い量刑は、以後の軍部によるテロや政治介入を抑止できない前例となったと指摘されており、政党政治の終焉と軍部台頭を象徴する事件として歴史的に評価されている。
経過
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1932年5月15日
昭和7年事件・事故 海軍青年将校らが首相官邸などを襲撃
犬養毅首相が銃撃を受け翌日死亡
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1933年9月
昭和8年判決 軍法会議・一般裁判で実行犯らに判決
減刑嘆願運動を背景に比較的軽い刑にとどまる
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1933年9月19日
昭和8年判決 陸軍軍法会議判決
陸軍関係者11名に対し、反乱罪・同予備罪で禁錮4年の判決。検察官の求刑(禁錮8年)を下回る軽い量刑となった。
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1933年11月9日
昭和8年判決 海軍軍法会議判決
主犯格の古賀清志・三上卓ら元海軍中尉に禁錮15年、他の被告にも禁錮13年から1年の判決。検察側の求刑を大きく下回る軽い量刑となり、被告への減刑を求める嘆願書が全国から10万通以上寄せられたことが背景にあるとされる。
出典・公的資料
一次資料 2件 判決文・白書・調査報告書・法令など、原典にあたれる資料を掲載しています。
- 調査報告書
- 調査報告書
- その他
- その他
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「五・一五事件」事件データベース jiken.jp、2026年7月29日閲覧。https://jiken.jp/cases/1932-go-ichigo-incident/
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更新履歴
- 2026年7月12日 本文を増補(「動機の背景と裁判の詳細」「歴史的評価」の2セクション、経過2件、出典2件を追加)
- 2026年7月11日 初版公開
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