第一次羽田事件
| 発生日 | 1967年10月8日(昭和42年) |
|---|---|
| 経過 | 発生から58年9か月 |
| 発生場所 | 東京都 大田区(羽田空港周辺、弁天橋) |
| 種別 | その他 |
| 状態 | 終結 |
| 被害 | 死者 1人 |
1967年(昭和42年)10月8日、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問阻止を掲げる学生ら約2500人が東京都大田区の羽田空港周辺で機動隊と衝突し、京都大学生の山﨑博昭(当時18歳)が死亡した事件。戦後の学生運動が実力闘争へと転じる象徴的な事件として、その後の運動に大きな影響を与えた。
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事件の経過
1967年(昭和42年)10月8日、佐藤栄作首相が南ベトナムを訪問するため羽田空港から出発する予定であったのに対し、これに反対する全学連(全日本学生自治会総連合)の学生ら約2500人が、羽田空港周辺で首相の出発を実力で阻止しようとした。学生らは空港近くの海老取川に架かる弁天橋付近で機動隊と激しく衝突し、機動隊から奪った警備車兼放水車が暴走する事態にもなった。この混乱の中、京都大学文学部の学生・山﨑博昭(当時18歳)が、警備車が通過した後の路上に倒れているのが発見され、搬送先の病院で死亡が確認された。この年、佐藤首相は南ベトナムを含む東南アジア諸国を歴訪する計画を進めており、ベトナム戦争への日本の関与に反対する学生・市民運動が全国的に高まりを見せていた時期にこの事件は起きた。日本国内の空港で学生の実力行使とこれに対する機動隊の実力行使が衝突し、死者を出すという事態は前例がなく、以後「羽田」は学生運動史における重大な転換点を象徴する地名として語られるようになった。
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死因をめぐる経緯とその後の影響
警察は当初、山﨑が仲間の学生が運転する警備車にはねられて死亡したと発表し、運転していたとされる学生を逮捕したが、証拠不十分で不起訴となった。一方、東京都監察医務院が作成した死体検案書では死因を「脳挫滅」としており、遺族や弁護団は、警察が主張した「轢殺痕」は存在しなかったと一貫して訴えている。事件から9日後の10月17日には、日比谷野外音楽堂で山﨑博昭の追悼中央葬が営まれた。この事件を機に、それまで座り込み等が中心だった学生運動はヘルメットと角材による実力闘争へと大きく傾斜し、翌1968年の新宿騒乱事件をはじめとする一連の激しい学生運動の起点として位置づけられている。山﨑の兄は、2014年に「10・8山﨑博昭プロジェクト」を立ち上げ、事件から半世紀以上を経た現在も、資料収集や関係者への聞き取りを通じて事件を記録し伝える活動を続けている。この活動を通じて制作されたドキュメンタリー映画『きみが死んだあとで』は、山﨑の生い立ちや死の余波、その後の学生運動を当時の関係者への取材を通じて描いている。
経過
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1967年10月8日
昭和42年事件・事故 羽田空港周辺で学生と機動隊が衝突、京大生が死亡
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1967年10月17日
昭和42年その他 日比谷野外音楽堂で追悼中央葬
出典・公的資料
- その他
- その他
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「第一次羽田事件」事件データベース jiken.jp、2026年7月30日閲覧。https://jiken.jp/cases/1967-first-haneda-incident/
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更新履歴
- 2026年7月30日 初版公開
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