人民広場事件 通称: 五月三十日事件

発生日 1950年5月30日(昭和25年) 1950年(昭和25年)の事件 / 5月30日に起きた事件
経過 発生から76年4か月
発生場所 東京都 千代田区(皇居前広場)
種別 その他
状態 終結
  • 事件が変えた法律・制度占領軍兵士への暴行事件を動機として国民公園管理規則が改正され、皇居前広場での政治集会が許可されなくなった。1951年のメーデーの会場使用不許可の大きな理由ともされた。
1950年(昭和25年)5月30日、占領下の東京・皇居前広場で開かれた「人民大会」の際に起きた、占領軍兵士への暴行事件。進駐軍が検挙した8人は占領軍の軍事裁判にかけられた。事件後、総司令部(GHQ)の指示により警視総監は6月2日から都内の集会・デモ行進を全面的に制限し、同様の措置は国家地方警察を通じて全国に広がった。政府は翌1951年、この事件を動機として国民公園管理規則を改正し、皇居前広場での政治的・宗教的な目的の集会を許可しないこととした。事件は1951年のメーデーの会場使用が許可されなかった大きな理由ともされた。国会では「五月三十日事件」とも呼ばれた。
人民広場事件を象徴する概念イラスト
※イメージ画像(生成AIによる概念イラストであり、実際の現場・関係者を写したものではありません)
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事件の概要

1950年5月30日、占領下の東京・皇居前広場で大会が開かれた。国会ではこの出来事を「五月三十日皇居前広場における人民大会事件」「人民蹶起大会事件」などと呼んでいる。皇居前広場は当時メーデーなどの集会に使われ、「人民広場」と呼ばれていた。政府はこの事件を、国会で「五月三十日の占領軍兵士に対しまする暴行事件」と説明し、国家地方警察本部の説明員も「宮城前における進駐軍に対する暴行事件」と述べている。特別区公安委員会の委員長は、参議院の委員長あてに事件の報告書を出していた。大会の主催者や参加者の数、負傷した兵士の人数については、公的な資料で確認できる数字が見当たらない。
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検挙と軍事裁判

国家地方警察本部の説明員は1950年7月の国会で、警視庁は警備に相当数の人員を出していたが、多数の参加者に対して検挙が遅れ、進駐軍が検挙することになったと説明し、警視庁は進駐軍当局からかなりの叱責を受けたと述べている。検挙されたのは8人で、6月5日の参議院の委員会では、日本共産党の機関紙アカハタが「検挙せられた八人が無実の罪である」として8人の釈放を求める記事を掲げていることが取り上げられた。同じ委員会で国家地方警察本部の説明員は、この事件については「すでに軍事裁判も判決が済みまして」と答弁している。8人は日本の裁判所ではなく占領軍の軍事裁判で裁かれたが、判決の内容や確定の状況を示す公的な記録は確認できていない。

集会・デモの全面制限

事件の後、警視総監は6月2日に声明を出し、2日から5日までは都内での一切の集会・示威行進を全面的に制限する方針を示した。6日にはこれを改め、当分の間、目的を問わずあらゆる行列と示威運動を行えないこととした。警視総監は、制限の根拠を1949年10月20日付の東京都条例第111号(集団行進及び集団示威運動に関する条例)と説明している。政府は国会で、この措置は5月30日の事件を契機とした都内の不穏な情勢を受けて総司令部から指示があったものだとし、6月16日の国家地方警察長官による同様の措置も、情勢が全国に波及すると認められたため指示に基づいて行ったと答弁した。全国の自治体警察にも同じ措置をとるよう指示が出された。政府は、これらの措置は憲法第21条に違反しないとの立場をとった。早稲田大学の学内での文化的な集会も一時制限された。衆議院では、いかなる会合も一切禁止するのは行き過ぎではないかという批判も出た。労働組合などからは、5月30日以後、法律的根拠もなく集会やデモが一方的に禁止されているとして、その撤廃を求める請願も出された。

政治への波及

6月5日の参議院の委員会では、前日のラジオや当日の新聞で、官房長官が、連合国の兵士に乱暴するようなことが重なるなら共産党を非合法化する必要があるという趣旨の発表をしたと報じられたことが取り上げられた。6月3日に開かれた禁止された会合の流れをくむ大会で決議されたマッカーサー司令官あての質問公開状は、勅令第311号に違反するとされ、警視庁管内のほか大阪、広島、青森、福岡などでも検挙者が出た。6月6日には、マッカーサーが吉田茂首相あての書簡で日本共産党の中央委員24人の公職追放を指令している。7月の衆議院本会議では、議員の一人が、三鷹事件などと並べて「五月三十日事件」を挙げ、共産党が暴力的な路線に転じた例として批判した。

皇居前広場の使用制限

この事件は、皇居前広場の使い方を変えた。1951年5月、労働大臣は国会で、慎重に検討した結果、国民公園管理規則に所要の改正を行い、皇居前広場を政治的・宗教的な目的のための集会や示威行進には使わせないこととしたと答弁した。官房長官も、皇居前広場をこれまでのように開放しないことになった動機は「昨年の五月三十日の不祥事件に端を発した」と述べている。1951年のメーデーでは皇居前広場の使用が許可されず、労働大臣は、この事件が尾を引いたことが不許可処分の非常に大きな理由になっていると答弁した。翌1952年のメーデーの使用不許可をめぐる訴訟について、最高裁判所大法廷は1953年12月23日の判決で、傍論として不許可処分は違法でないと判示した。1953年のメーデーをめぐる訴訟の東京高等裁判所判決(1954年3月18日)は、当時の厚生大臣が1950年6月以降、皇居外苑の使用許可について一定の方針を立てていたと認定している。

経過

  1. 1950年5月30日
    昭和25年

    事件・事故 皇居前広場の人民大会で占領軍兵士への暴行事件

    進駐軍が8人を検挙。

  2. 1950年6月2日
    昭和25年

    その他 警視総監が都内の集会・デモ行進を全面制限

    6月6日に「当分の間」へ延長。根拠は東京都条例第111号。

  3. 1950年6月5日
    昭和25年

    その他 国会で軍事裁判の判決が済んだと答弁

    参議院地方行政委員会。判決の内容は公的資料で未確認。

  4. 1950年6月16日
    昭和25年

    その他 国家地方警察長官が同様の措置

    総司令部の指示に基づく。

  5. 1951年5月
    昭和26年

    その他 国民公園管理規則を改正し皇居前広場の政治集会を不許可に

    1951年のメーデーの会場使用も不許可。

  6. 1953年12月23日
    昭和28年

    その他 最高裁大法廷が1952年メーデーの使用不許可を傍論で適法と判示

出典・公的資料

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「人民広場事件」事件JP、2026年10月27日閲覧。https://jiken.jp/cases/1950-jinmin-hiroba-incident/
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更新履歴

  • 2026年10月9日 初版公開

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