崑崙丸沈没事件

発生日 1943年10月5日(昭和18年)
経過 発生から82年9か月
発生場所 山口県 下関発、福岡県沖ノ島沖
種別 その他
状態 終結
被害 死者 583人
1943年(昭和18年)10月5日未明、関釜連絡船「崑崙丸」が、山口県下関から朝鮮半島釜山への航海中、福岡県沖ノ島沖でアメリカ海軍潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した事件。衆議院議員2人を含む583人が死亡・行方不明となった。太平洋戦争下、日本の民間船舶が受けた被害の大きさを象徴する事件の一つ。
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事件の経過

崑崙丸は、関釜連絡船として建造された天山丸型の2番船で、三菱長崎造船所で1942年6月に起工、1943年3月30日に竣工した総トン数7908トンの新鋭船だった。竣工時の公試運転では23.454ノットを記録し、姉妹船「天山丸」が持っていた記録を更新して、戦前に建造された日本商船として最速の速力を誇った。しかし竣工からわずか半年余りの1943年(昭和18年)10月5日午前1時15分ごろ、山口県下関市と朝鮮半島の釜山を結ぶ航路を進んでいたところ、福岡県沖ノ島の東北約10海里の海域で、アメリカ海軍潜水艦「ワフー」の魚雷攻撃を受けた。魚雷は左舷後方の手荷物室付近に命中し、船体は大きく左に傾いて短時間のうちに沈没した。乗客・乗員合わせて655人が乗船していたとされるが、救助されたのは乗客479人中28人、乗組員165人中21人にとどまり、衆議院議員2人を含む583人が死亡・行方不明となった。
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政府の対応とその後

当時、日本政府は戦時下の情報統制のもとで被害の詳細を伏せる方針をとっていたが、多数の死者を隠しきれないと判断し、10月7日に事実関係を公表した。犠牲者の中には、満州の食糧事情を調査する合同視察団に参加していた衆議院議員の助川啓四郎・加藤鯛一(当時7期目)両名や、三重県会副議長の福島吉三郎も含まれており、与党・翼賛政治会は両議員の合同葬を営んだ。事件を受け、関釜航路は駆逐艦の護衛を伴う昼間運航に限定され、旅客・貨物の輸送も厳しく制限されるようになった。日本海軍は攻撃に激怒して対潜警備を強化し、報復として、崑崙丸を撃沈した潜水艦「ワフー」は事件からわずか6日後の10月11日、宗谷海峡で発見され撃沈された。崑崙丸事件は、戦争末期に向かうにつれて日本の民間輸送船が受けた被害の大きさを象徴する事件の一つとして記憶されている。関釜連絡船は日本と朝鮮半島を結ぶ大動脈として多くの民間人・軍人が利用しており、崑崙丸の沈没は、戦局の悪化にともなって戦場が国内外の通商路にまで及んでいたことを人々に強く実感させる出来事だった。

経過

  1. 1943年10月5日
    昭和18年

    事件・事故 崑崙丸が魚雷攻撃を受け沈没、583人死亡・行方不明

  2. 1943年10月7日
    昭和18年

    その他 政府が事実関係を公表

出典・公的資料

  • その他
    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    沈没の経過・原因・死者数・その後の対応を確認
  • その他
    個人史料アーカイブ
    犠牲者に衆議院議員が含まれていた事実等を確認

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「崑崙丸沈没事件」事件データベース jiken.jp、2026年7月30日閲覧。https://jiken.jp/cases/1943-konron-maru-sinking/

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更新履歴

  • 2026年7月30日 初版公開

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