長崎国旗事件
| 発生日 | 1958年5月2日(昭和33年) 1958年(昭和33年)の事件 / 5月2日に起きた事件 |
|---|---|
| 経過 | 発生から68年5か月 |
| 発生場所 | 長崎県 長崎市 |
| 種別 | その他 |
| 状態 | 終結 |
1958年(昭和33年)5月2日、長崎市の浜屋百貨店4階で開かれていた日中友好協会長崎支部主催の中国切手・切り紙展覧会で、右翼団体に所属する28歳の男が会場に掲げられていた中華人民共和国国旗(五星紅旗)を引きずり降ろした。日本政府は中華人民共和国を国家承認していなかったため、外国国章損壊罪は適用されず、男は器物損壊の容疑で書類送検された後、軽犯罪法違反で科料500円の略式命令を受けた。中国側は日本政府の対応を強く批判し、5月9日に対日貿易の中止を声明、以後約2年半にわたり日中間の貿易が途絶えた。のちに公開された台湾側の外交文書により、在長崎の中華民国領事館と右翼団体の連絡が事件の背景にあったことが明らかになっている。
スポンサーリンク
事件の経緯
1958年5月2日、長崎市浜町の浜屋百貨店4階催事場で、日中友好協会長崎支部の主催による「中国切手・切り紙展覧会」が開かれていた。会場入口付近の天井には、縦120センチ・横150センチの中華人民共和国国旗(五星紅旗)が針金で吊るされていた。主催者は、展示物がすべて中国のものであることから雰囲気を出すためと、切手と同様の展示品の意味合いがあったと説明している。この掲揚については、事前に在長崎中華民国領事館が「国際法上非合法な国旗であり、日本と中華民国との友好関係に悪影響を与える」と警告していた。
同日、右翼団体に所属する28歳の男が会場に乱入し、この国旗を引きずり降ろした。旗そのものは破れていなかった。当時の日本は中華人民共和国と国交を結んでおらず、中華民国(台湾)政府を中国の正統政府として承認していた。
スポンサーリンク
男の処分と日本政府の対応
男は事情聴取の後、器物損壊の容疑で書類送検され、同年12月3日、軽犯罪法の「みだりに他人の看板を取り除いた」行為にあたるとして科料500円の略式命令を受けた。外国国章損壊罪(刑法92条)は外国政府の請求がなければ処罰できない罪であり、日本政府が承認していない中華人民共和国の国旗は保護の対象とされなかった。朝日新聞は5月11日の社説で、保護されるのは国を象徴して公式に掲揚される国旗であり、今回の旗は会場の装飾にすぎないとして、中国側の反応は過激すぎると論じた。この処分の軽さは、後に中国側が態度を硬化させる一因となった。当時の岸信介内閣は、日中民間貿易協定(第四次日中民間貿易協定)をめぐって中国側通商代表部の国旗掲揚権を認めない方針をとっており、日中関係はすでに悪化しつつあった。
中国側の反応と貿易断絶
事件発生から1週間後の5月9日、中華人民共和国の陳毅副総理兼外交部長は、日本政府の対応を中国への侮辱行為の黙認であると厳しく非難し、日本との貿易を全面的に中止する方針を声明した。中国側はこれに先立って進められていた対中鉄鋼輸出契約を破棄し、政治と経済を切り離す「政経分離」の立場を否定し「政経不可分」の原則を強く打ち出した。この結果、日中間の貿易は約2年半にわたって事実上停止し、1960年12月に「友好商社」に限定した取引が再開されるまで、中国大陸と取引していた日本の商工業者は大きな打撃を受けた。
文化交流への打撃
貿易の停止と歩調をあわせ、日中間の文化・スポーツ交流も相次いで中断された。囲碁棋士の呉清源が計画していた中国人棋士の日本留学の話も、この事件の影響で立ち消えとなった。日中友好協会など民間の交流団体を通じて積み重ねられてきた文化交流の実績は、一度の事件と両国政府の対応の応酬によって大きく後退することになった。
事件の真相―台湾外交文書が明かした関与
事件から半世紀以上を経て公開された台湾(中華民国)外交部の外交文書により、事件の背景に新たな事実が明らかになった。当時長崎に置かれていた中華民国駐長崎領事館が、日本国内の右翼団体とひそかに連絡を取り、中国切手展での国旗引き下ろしを働きかけていたことが、この文書公開によって判明したのである。台湾側は大陸の中華人民共和国が国際的な承認を広げていくことへの強い危機感から、日中間の民間交流の進展そのものを妨害しようとしていたとみられる。事件当時は単発の右翼団体員による衝動的な行為と受け止められていたが、実際には中華民国側の関与という国際政治の駆け引きが背後にあったことになる。
歴史的意義
長崎国旗事件は、日中国交正常化(1972年)に先立つ「政経分離」の時代における日中関係の脆さを象徴する出来事として、外交史・日中関係史の研究で繰り返し取り上げられてきた。国交のない国家間の民間交流が、些細なきっかけで政治問題化し、貿易や文化交流全体を巻き込む形で悪化しうることを示した事例であり、その後の日中関係における相互不信の一因ともなった。事件をめぐる評価は、単なる右翼団体員の暴挙としてではなく、台湾側の介入という国際政治の力学を含めて再検討が進められている。
日中民間貿易協定の歴史
戦後の日中貿易は1950年に始まったものの、朝鮮戦争の勃発によりアメリカが対中姿勢を硬化させたことで激減した。1952年6月、訪中した日本の議員団と中国国際貿易促進委員会との間で第1次日中民間貿易協定が締結されたのを皮切りに、1953年の第2次、1955年の第3次と、民間レベルでの貿易協定が積み重ねられてきた。1958年3月、岸信介政権の承諾のもとで第4次日中民間貿易協定が締結されたが、その2か月後の5月2日に長崎国旗事件が発生し、積み上げられてきた民間貿易の枠組みは事実上崩壊することになった。
経過
-
1958年5月2日
昭和33年事件・事故 男が中国国旗を引きずり降ろす
長崎市浜屋百貨店で開催中の中国切手・切り紙展覧会場で、右翼団体所属の28歳の男が掲げられていた中華人民共和国国旗を引きずり降ろした。
-
1958年5月9日
昭和33年その他 中国が対日貿易の全面中止を声明
中華人民共和国の陳毅副総理兼外交部長が、日本政府の対応を非難し対日貿易の全面中止を声明した。
-
1958年12月3日
昭和33年判決 男に科料500円の略式命令
器物損壊で書類送検されていた男が、軽犯罪法違反で科料500円の略式命令を受けた。
-
1960年12月
昭和35年その他 友好商社限定で貿易再開
約2年半にわたり停止していた日中貿易が、「友好商社」に限定する形で再開された。
出典・公的資料
一次資料 1件 判決文・白書・調査報告書・法令など、原典にあたれる資料を掲載しています。
-
その他
Wikipedia事件の経緯・国旗の寸法と掲揚状況・中華民国領事館の事前警告・書類送検の容疑(器物損壊)と略式命令(軽犯罪法、科料500円)・朝日新聞社説・中国側の貿易中止声明・呉清源の留学計画中止・台湾外交文書による領事館関与を確認
-
その他
霞山会「東亜」第502号 2009年4月1日発行横山宏章による論文。台湾外交部の外交文書公開により、在長崎中華民国領事館が日本の右翼団体と連絡を取り事件を働きかけていたことが明らかになった経緯を確認(CiNii書誌情報)
-
その他
長崎県立大学東アジア研究所「東アジア評論」第6号 2014年3月1日発行祁建民による研究論文(長崎県立大学学術リポジトリ)。事件の経緯と、中国側の対応・戦後日中関係における位置づけを確認。
-
調査報告書
防衛省防衛研究所「防衛研究所紀要」 2020年10月1日発行杉浦康之による論文。1958年5月の長崎国旗事件を起点とする日中「断絶」情勢と、当時の岸信介内閣の対中政策を確認
さらに調べるには
- 国立国会図書館サーチこの事件を扱った書籍・雑誌記事を探す
- CiNii Research論文・判例研究を探す
- 裁判所 裁判例検索判決文を探す(公開されている判決のみ)
- 国会会議録検索システム国会でこの事件がどう議論されたかを調べる
資料の探し方や引用の書き方は調べ学習・レポートでの使い方にまとめています。
関連する法律用語
この記事を引用する
レポート・記事などで本ページを参照する際は、以下の表記をご利用ください。一次資料までたどる方法は調べ学習・レポートでの使い方をご覧ください。
「長崎国旗事件」事件JP、2026年10月27日閲覧。https://jiken.jp/cases/1958-nagasaki-flag-incident/
スポンサーリンク
更新履歴
- 2026年9月29日 事実精度監査:書類送検の容疑(器物損壊)と略式命令の内容・主体を訂正、旗は破れていなかった点、外国国章損壊罪が適用されなかった法的理由、中華民国領事館の事前警告と朝日新聞社説を追記
- 2026年8月20日 初版公開
本ページは公的資料に基づいて作成しています。情報の誤りにお気づきの場合や、掲載内容の削除・訂正のご依頼は お問い合わせ・削除依頼よりご連絡ください。