安保闘争死亡事件(樺美智子さん) 通称: 6・15事件

発生日 1960年6月15日(昭和35年)
経過 発生から66年2か月
発生場所 東京都 千代田区永田町(国会議事堂周辺)
種別 その他
状態 終結
被害 死者 1人
1960年(昭和35年)6月15日、新安保条約批准に反対する全学連主流派のデモ隊が国会構内に突入し、警官隊と衝突した。この混乱の中で東京大学生の樺美智子さんが死亡した。
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事件の経過

1960年6月15日、日米新安全保障条約の批准をめぐり、条約に反対する全学連(全日本学生自治会総連合)主流派の学生らが「安保決戦の日」として、国会議事堂の南通用門から構内に突入し、警備にあたっていた警官隊と激しく衝突した。混乱の中で、東京大学文学部の学生であった樺美智子さんが死亡した。
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死因をめぐる対立

警察病院の検死では、死因は胸部圧迫および頭部内出血とされた。しかし、警察側は学生らの将棋倒しによる圧死を主張し、学生側は機動隊による暴行が死因であると主張して、見解は鋭く対立した。この対立は後年に至るまで完全には決着していない。

政治的影響

女子学生の死亡という衝撃的な結果は日本社会に大きな衝撃を与え、当時予定されていたアイゼンハワー米大統領の訪日は中止に追い込まれた。新安保条約は6月19日に自然承認されたが、岸信介首相は事態の責任を取る形で6月23日に退陣を表明した。樺美智子さんの死は、60年安保闘争を象徴する出来事として、今日まで記憶され続けている。

60年安保闘争の帰結

新安保条約は1960年6月19日に自然承認され、6月23日に批准書が交換されて発効した。しかし、条約の是非をめぐる激しい国論の分裂と、樺美智子さんの死という衝撃的な結果を受け、岸信介首相は退陣を余儀なくされ、日本の政治は大きな転換点を迎えた。

記憶の継承

樺美智子さんの死は、その後の学生運動・市民運動においてしばしば言及され、国会周辺には有志による記念碑も設置されている。60年安保闘争は、戦後日本における最大規模の大衆運動として、現在も政治史研究の重要なテーマであり続けている。

安保闘争の規模

国会周辺のデモには連日数万人規模の市民・学生が参加し、6月中旬には全国で数百万人が関連する行動に加わったとされる。樺美智子さんの死は、それまで学生運動に距離を置いていた一般市民をも巻き込み、運動をさらに拡大させる一因となった。

樺美智子さんの人物像

樺美智子さんは東京大学文学部の学生で、学内では学生運動に積極的に参加していた。その死後、遺稿集が出版されるなど、多くの人々の記憶に残る存在となった。

経過

  1. 1960年6月15日
    昭和35年

    事件・事故 デモ隊が国会構内に突入し警官隊と衝突

    樺美智子さんが死亡した。

  2. 1960年6月23日
    昭和35年

    その他 岸信介首相が退陣を表明

出典・公的資料

  • その他
    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    事件の経過・政治的影響を確認
  • その他
    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    安保闘争全体の背景・経過を確認

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「安保闘争死亡事件(樺美智子さん)」事件JP、2026年9月8日閲覧。https://jiken.jp/cases/1960-anpo-protest-kanba-death/

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