事故の一覧(121件)・6ページ目
種別「事故」の事件を発生日の新しい順に掲載しています。
「事故」には、故意ではない人為的なミスや管理不備によって被害が生じた交通事故・火災・労働災害・レジャー事故などを分類しています。自然現象が直接の原因となった地震・台風・噴火などは「災害」に分類しています。掲載事件は、事故調査委員会の報告書や判決文、信頼できる報道機関の記事など公的資料に基づき事実関係を確認したうえで記録しています。
121 件
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能代大火
1949年2月20日未明、秋田県能代市で起きた大火。強い西風にあおられて火は市街地に広がり、同日朝8時に鎮火するまでに住家と非住家あわせて2,238棟が焼け、死者3人を出した。焼失面積は市街地の約42%に及び、木材の町の工場や官庁街も焼けた。火災後、市は幅23〜30メートルの防火帯で市街地を区切る復興都市計画を打ち出し、約72万平方メートルの土地区画整理事業を行った。能代市は1956年にも大火に見舞われている(第二次能代大火)。
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法隆寺金堂壁画焼損
1949年1月26日の早朝、奈良県生駒郡斑鳩町の法隆寺で、昭和の大修理のさなかにあった金堂の内部から火が出て、7世紀後半から8世紀初めの作とされる金堂の壁画12面が焼損した事件。文部大臣は、壁画の模写作業の保温のために持ち込まれた電気座布団が原因と調査会が結論したと国会で答弁し、文部省は関係者を懲戒処分とした。この焼損は国会で文化財保護法の提出の「契機」と述べられ、翌1950年に同法が制定された。焼損の日である1月26日は、1955年から「文化財防火デー」とされている。
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万代橋事件
1948年(昭和23年)8月23日、新潟市の萬代橋で花火大会を見物していた観衆が欄干に殺到し、欄干が約40メートルにわたり崩落した。約100人が信濃川に転落し、11人が死亡、29人が重軽傷を負った。
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八高線列車脱線転覆事故
1947年(昭和22年)2月25日午前7時50分頃、国鉄八高線東飯能駅~高麗川駅間で、買い出し客で満員となっていた列車が急カーブを曲がりきれず後部4両が脱線し、約5メートル下の築堤下に転落した。死者184人を出し、日本の鉄道事故史上最悪クラスの惨事となった。木造客車の脆弱性が被害拡大の一因とされ、事故後、木造客車の淘汰が進められた。
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二又トンネル爆発事故
福岡県のトンネル内に貯蔵されていた旧日本陸軍の火薬を米軍が焼却処分しようとした際に大爆発し、死者147人を出した事故。
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第六垂水丸遭難事故
1944年(昭和19年)2月6日午前9時50分、鹿児島県の垂水港を出港した定期旅客船「第六垂水丸」(122総トン)が、出港直後に桟橋付近でバランスを崩して転覆・沈没した。戦時下の燃料不足で減便されていた航路に乗客が殺到し、定員を大幅に超える約700人が乗船していたとされ、死者は慰霊碑の記録で547人にのぼる、日本の海難事故史上2番目の規模の惨事となった。
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松尾鉱山落盤事故
岩手県の松尾鉱山(硫黄鉱山)で発生した落盤事故。死者・行方不明者85人を出した。
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禁野火薬庫爆発事故
1939年(昭和14年)3月1日午後2時45分頃、大阪府枚方市の陸軍禁野火薬庫で、砲弾解体作業中に発火し大爆発が発生した。爆発は同日19時までに計29回起き、火災は3日正午まで続いた。死者94人、負傷者602人、全半壊家屋821戸という大惨事となり、枚方市は1989年、3月1日を「平和の日」に制定した。
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大牟田爆発赤痢事件
1937年(昭和12年)9月25日、福岡県大牟田市内で市民が相次いで赤痢様の症状を訴え、最終的に712人が死亡した事件。公式には上水道の汚染が原因とされたが、同日夜に市内の化学工業所で発生した爆発事故との関連を指摘する見方もあり、原因をめぐる論争は国会でも取り上げられた。
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浜一中大福餅事件
1936年(昭和11年)5月10日、静岡県立浜松第一中学校(現・浜松北高等学校)で行われた運動会終了後、地元の菓子店「三好野」が製造した大福餅が生徒・教職員とその家族に配布された。その夜から高熱・腹痛・下痢を訴える者が続出し、罹患者は2,000名を超え、44名(諸説あり)が死亡する日本の食中毒史上最悪規模の集団食中毒事件となった。陸軍軍医学校の調査により、原因は大福餅の餡に混入していたゲルトネル菌(サルモネラ菌の一種)と断定された。三好野の店内はネズミが横行する劣悪な衛生環境にあり、餡を製造後3昼夜にわたり放置していたことが感染源とみられている。刑事責任の追及は最終的に立件に至らず、事件は静岡県・浜松市の医療衛生史に刻まれる悲劇として語り継がれている。
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美保関事件
1927年(昭和2年)8月24日夜、島根県美保関沖で行われていた連合艦隊の夜間演習中に、巡洋艦「神通」が駆逐艦「蕨」に、巡洋艦「那珂」が駆逐艦「葦」に相次いで衝突した海軍の事故。蕨は沈没し、葦は艦尾を失った。海軍大臣の奏上によると、救助されたのは蕨の乗員21人だけで、ほかの119人が行方不明となった。神通の艦長は起訴されて軍法会議の公判を受けたが、判決の前日に自ら命を絶ち、公訴権は消滅した。美保関の五本松公園には、事故の慰霊塔が今も残る。
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山陽本線特急列車脱線事故
1926年(大正15年)9月23日未明、山陽本線安芸中野駅-海田市駅間で、豪雨による畑賀川の堤防決壊で築堤が崩壊していた地点に、東京発下関行きの下り特急第1列車が進入して脱線転覆した事故。34人が死亡し、乗客には著名人や外国人も含まれていた。
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北陸線列車雪崩直撃事故
1922年(大正11年)2月3日午後8時頃、新潟県西頸城郡(現・糸魚川市)の北陸本線親不知駅~青海駅間、勝山トンネル西口付近で大規模な雪崩が発生し、走行中の列車を直撃した。乗客・除雪作業員ら90人が死亡し、日本の雪崩関連鉄道事故として最悪の被害となった。
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丹那トンネル熱海口崩落事故
1921年(大正10年)4月1日午後4時20分ごろ、静岡県田方郡熱海町(現・熱海市)で建設中だった丹那トンネル熱海口(東口)付近、坑口から約300メートルの地点で崩落が発生した。作業員33名が生き埋めとなり、16名が死亡した。退路を断たれた17名は坑内奥に取り残されたが、7日後の4月8日に生存した状態で救出された。事故現場では地熱による地質変化と断層破砕帯からの湧水が確認されており、事故後は水抜き坑を先進させる排水工法(後の「丹那方式」)が各地のトンネル工事に採用された。トンネル全体の工事は当初計画の7年を大幅に超えて16年を要し、工事期間中の事故による死者は67名にのぼった。丹那トンネルは1934年(昭和9年)12月、熱海線(現・東海道本線)熱海駅-函南駅間として開通した。
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方城炭鉱ガス爆発事故
1914年(大正3年)12月15日午前9時40分頃、福岡県田川郡方城町(現・福智町)の方城炭鉱で発生したガス爆発事故。三菱合資会社が経営していた炭鉱で、坑内に滞留したメタンガスと炭塵に引火し大爆発が起きた。会社発表の死者は671人にのぼり、日本の炭鉱事故史上最悪の惨事とされる。
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鹿島灘漁船遭難事故
1910年(明治43年)3月12日、猛烈な暴風雨により、千葉県銚子沖から茨城県鹿嶋沖にかけての鹿島灘で操業中だった漁船100隻以上が遭難し、900人以上が死亡した。利根川河口付近は古くから海の難所として知られ、この事故を契機に銚子港では堤防・運河の建設や漁港整備が進められた。
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大之浦炭鉱爆発事故
福岡県の筑豊炭田・大之浦炭鉱(桐野坑)で発生したガス炭じん爆発事故。『鉱山保安年報』に基づく集計では死者256人(243人・259人とする資料もある)。
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八甲田雪中行軍遭難事件
1902年(明治35年)1月23日、青森の歩兵第五聯隊第二大隊の210人が、雪中に青森から田代を経て三本木平野へ進出できるかを調べるため、八甲田山麓の田代に向けて一泊の行軍に出発し、猛吹雪と記録的な寒波の中で道を失って遭難した事件。210人のうち199人が死亡し、生存者は11人だった。気象庁の記録では、同じ寒波のさなかの1月25日に旭川で国内の観測史上最低の氷点下41.0度が観測されている。陸軍の報告書『遭難始末』は悪天候を大きな原因として記録したが、近年の研究では、政治的な意図で事実が隠されたことも指摘されている。
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千島艦事件
1892年(明治25年)11月30日、フランスで建造され回航中だった日本海軍の砲艦「千島」が、瀬戸内海の愛媛県沖でイギリスのP&O汽船会社所有の商船ラヴェンナ号と衝突し沈没、乗組員74名が死亡した。日本政府はイギリス領事裁判所にP&Oを相手取り損害賠償訴訟を起こし、上海高等領事裁判所やイギリス枢密院まで争われた末、1895年9月に和解が成立した。日本政府が外国法廷の訴訟当事者となった最初の事件であり、領事裁判権撤廃を求める世論にも影響を与えた。
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ノルマントン号事件
1886年(明治19年)10月24日、イギリス貨物船ノルマントン号が紀伊半島沖で沈没し、日本人乗客25人全員が水死した事件。イギリス人船長ら乗組員はボートで脱出して助かった。神戸のイギリス領事による海難審判で船長の責任が問われなかったことに世論が反発し、日本側の告訴を受けた横浜のイギリス領事裁判所は船長に禁錮3か月の有罪判決を言い渡したが、遺族への賠償はなかった。事件は不平等条約下の領事裁判権の不公正さを浮き彫りにし、条約改正運動を後押しした。
出典: https://jiken.jp/category/accident/?page=6(2026-10-30 取得)/ 事件JP