北陸線列車雪崩直撃事故

発生日 1922年2月3日(大正11年)
経過 発生から104年7か月
発生場所 新潟県 西頸城郡歌外波村(現・糸魚川市)北陸本線 親不知駅~青海駅間
種別 事故
状態 終結
被害 死者 90人
1922年(大正11年)2月3日午後8時頃、新潟県西頸城郡(現・糸魚川市)の北陸本線親不知駅~青海駅間、勝山トンネル西口付近で大規模な雪崩が発生し、走行中の列車を直撃した。乗客・除雪作業員ら90人が死亡し、日本の雪崩関連鉄道事故として最悪の被害となった。
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事故の発生

1922年2月3日午後7時59分頃(一部報道は午後8時7分頃)、北陸本線親不知駅と青海駅の間にある勝山トンネル西口付近で、全層雪崩が発生し走行中の列車を直撃した。事故当日は明け方から気温が上昇して積雪が緩み、夕方から雨脚が強まるという雪崩の起きやすい気象条件が重なっていた。崩落した雪の推定規模は延長約1500メートル、幅約30メートル、体積約6000立方メートルにのぼり、列車が鳴らした汽笛が引き金になった可能性も指摘されている。
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被害の実態

列車には約200人が乗車しており、死者は即死88人・収容後死亡2人の計90人にのぼった。犠牲者の内訳は除雪作業員88人、鉄道職員1人、一般乗客1人で、20代・30代の働き盛りの若者が過半数を占めた。地元の蓮台寺地区では、戸数40戸の青年団員16人中15人が事故に遭い13人が死亡するなど、集落単位で深刻な被害が出た。この事故は、日本国内で発生した雪崩関連の鉄道事故としては今日に至るまで最悪の死者数として記録されている。身元不明のまま推移した一般乗客1人を除き、犠牲者の多くは氏名・年齢が判明しており、事故の記録は地元の郷土史・鉄道史研究において繰り返し検証されてきた。

地域別の被害

犠牲者の出身地別では、糸魚川町24人、能生町17人、大和川村24人、磯部村24人などとなっており、被害は北陸本線沿線の複数の集落に及んだ。除雪作業員の多くは、冬季の副収入を得るために鉄道の除雪作業に従事していた地元の若者たちで、年齢層別では20代34人・30代19人・40代21人・10代13人と、働き盛りの世代が犠牲者の大半を占めた。

親不知・子不知の地形的背景

事故現場周辺は、断崖が日本海に迫る「親不知・子不知」と呼ばれる海岸沿いの難所であり、鉄道開通以前は北国街道の中でも最大の難所として知られていた。急峻な地形は雪崩や落石が発生しやすい地質・地形条件を備えており、本事故はこうした地形的リスクが現実化した典型例とされる。事故当日は明け方から気温が上昇して雪が雨に変わり、夕刻以降さらに雨脚が強まるという、全層雪崩が発生しやすい特異な気象条件が重なっていた。事故の教訓は、現在も鉄道会社の防雪教育や、豪雪地帯の防災訓練の題材として活用されている。

事故後の対応

事故から13日後の2月16日、地元・糸魚川町の善導寺で慰霊祭が営まれ、鉄道大臣代理が出席した。補償をめぐっては、鉄道省が除雪作業員を「臨時作業員」として1人200円を提示したのに対し、地元の町長が交渉を重ね、大正天皇からの下賜金を含め遺族1人あたり4400円で決着した。

防雪対策への影響と記憶の継承

事故現場付近では、1966年の複線化の際に頑丈なコンクリート製スノーシェッドが下り線に整備され、上り線には山側に新子不知トンネルが新設された。地元では医師らが主導して慰霊碑が建立され、現在は5基の慰霊碑が残る。2021年には国土地理院の自然災害伝承碑に登録され、事故の記憶が今日まで継承されている。本事故は、日本国内における雪崩災害の危険性を全国的に知らしめた事例の一つとされ、後年の防雪林整備や雪崩予防柵の設置など、山岳地帯における鉄道の防雪対策の重要性を再認識させる契機ともなった。

経過

  1. 1922年2月3日
    大正11年

    事件・事故 勝山トンネル西口付近で雪崩が列車を直撃

    全層雪崩が発生し、除雪作業員らを乗せた列車を直撃した。

  2. 1922年2月16日
    大正11年

    その他 糸魚川町の善導寺で慰霊祭

    鉄道大臣代理が出席し、犠牲者を悼む慰霊祭が営まれた。

出典・公的資料

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「北陸線列車雪崩直撃事故」事件JP、2026年9月8日閲覧。https://jiken.jp/cases/1922-hokuriku-line-avalanche/

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更新履歴

  • 2026年8月19日 初版公開

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