美保関事件 通称: 美保関沖事件

発生日 1927年8月24日(昭和2年) 1927年(昭和2年)の事件 / 8月24日に起きた事件
経過 発生から99年2か月
発生場所 島根県 八束郡美保関町沖(現在の松江市)
種別 事故
状態 終結
被害 死者 119人
1927年(昭和2年)8月24日夜、島根県美保関沖で行われていた連合艦隊の夜間演習中に、巡洋艦「神通」が駆逐艦「蕨」に、巡洋艦「那珂」が駆逐艦「葦」に相次いで衝突した海軍の事故。蕨は沈没し、葦は艦尾を失った。海軍大臣の奏上によると、救助されたのは蕨の乗員21人だけで、ほかの119人が行方不明となった。神通の艦長は起訴されて軍法会議の公判を受けたが、判決の前日に自ら命を絶ち、公訴権は消滅した。美保関の五本松公園には、事故の慰霊塔が今も残る。
美保関事件を象徴する概念イラスト
※イメージ画像(生成AIによる概念イラストであり、実際の現場・関係者を写したものではありません)
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軍縮のもとでの夜間演習

松江歴史館の資料によると、1922年のワシントン海軍軍縮条約で、保有できる主力艦の比率はイギリス5、アメリカ5、日本3とされた。日本海軍は駆逐艦や巡洋艦などの補助艦を補強し、訓練によって劣勢を補おうとしていた。1927年8月、60余隻の艦艇からなる連合艦隊は、美保関沖で灯火を消した夜間の演習を行っていた。1933年の帝国議会で海軍大臣は、当時の訓練について、両軍がそれぞれ30ノット、合わせて60ノットの速さで接近するような夜間の魚雷襲撃訓練までしていたと説明している。
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相次いだ衝突

海軍の公文書によると、8月24日夜、演習の中で、巡洋艦「神通」は午後11時20分ごろ、駆逐艦「蕨」の右舷に衝突した。蕨は間もなく沈没した。続いて巡洋艦「那珂」も駆逐艦「葦」の左舷後部に衝突し、葦は艦尾を切り取られた。海軍は当初、衝突の組み合わせを誤って報告し、翌日に訂正している。神通と葦は自力で航行できず、それぞれ「金剛」と「阿武隈」に曳かれて舞鶴に回航された。

119人が行方不明に

8月30日、海軍大臣は天皇に事故の経過を報告した。その奏上の文案によると、蕨の沈没した位置は水深約80尋(約145メートル)で、引き揚げは不可能と考えられた。連合艦隊の艦艇で人命の救助に努めたが、救助できたのは蕨の乗員21人だけで、ほかの119人は行方不明だった。その後も水雷戦隊と航空機で捜索したが、何も見つからなかった。農林省の船も捜索に加わり、9月13日に作業が打ち切られた。9月1日には犠牲者の合同葬儀が行われた。

査問会と軍法会議

海軍は大将の財部彪を委員長とする査問会を設けて事故を調べた。神通の艦長だった水城圭次大佐は起訴され、軍法会議の公判を受けた。1937年の帝国議会で海軍省の政府委員は、美保関事件では公訴が提起されて公判が開かれたが、判決の直前に艦長が自決したため、公訴権が消滅したと答弁している。別の答弁では、公判が終わり、翌日が判決という日に自決したと述べた。国立公文書館の資料によると、艦長は1927年12月26日に亡くなった。防衛研究所の論考は、この事故を、演習中の不可抗力的な事故であったにもかかわらず法律論を厳格に適用し、衝突の当事者である艦長に厳罰を科そうとした事例と位置づけている。

事故をめぐる議論

1935年の帝国議会で、ある議員は、事故の当時、航海灯をつけて航行しながら軍艦が駆逐艦に乗り上げるとは怪しからぬという社説を載せた新聞があったと振り返り、海軍の真剣な訓練が国民に理解されていないと述べた。損傷した艦の修理費などとして、国は154万円余りの支出を決めた。失われた蕨の代わりの艦の建造も、1929年の帝国議会で取り上げられている。

慰霊塔

松江歴史館の資料によると、1928年5月、美保関の町民が松江の松陽新報社に慰霊塔の建設を依頼し、寄付は1万3,000円に達した。1929年、美保関の五本松公園に軍艦のマストをかたどった慰霊塔が建てられ、正面の文字は元帥の東郷平八郎が書いた。慰霊塔は戦後「平和祈念塔」と名を改めて残っている。その1年前には、鳥取県境港の台場公園にも有志によって慰霊塔が建てられた。松江歴史館は、犠牲者119人のうち101人分の遺影を所蔵している。

経過

  1. 1927年8月24日
    昭和2年

    事件・事故 夜間演習中に神通と蕨、那珂と葦が衝突

    午後11時20分ごろ。蕨は沈没

  2. 1927年8月27日
    昭和2年

    捜査 海軍が査問会の組織を起案

    委員長は財部彪大将

  3. 1927年8月30日
    昭和2年

    その他 海軍大臣が事故の経過を奏上

    蕨の乗員21人を救助、119人が行方不明

  4. 1927年9月1日
    昭和2年

    その他 犠牲者の合同葬儀

  5. 1927年9月13日
    昭和2年

    その他 行方不明者の捜索作業を打ち切る

  6. 1927年12月26日
    昭和2年

    その他 神通艦長が軍法会議の判決前に死亡、公訴権が消滅

  7. 1929年
    昭和4年

    その他 美保関五本松公園に慰霊塔が建てられる

    戦後「平和祈念塔」に改称

出典・公的資料

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「美保関事件」事件JP、2026年10月27日閲覧。https://jiken.jp/cases/1927-mihonoseki-incident/
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更新履歴

  • 2026年10月15日 初版公開

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