事故の一覧(121件)・5ページ目
種別「事故」の事件を発生日の新しい順に掲載しています。
「事故」には、故意ではない人為的なミスや管理不備によって被害が生じた交通事故・火災・労働災害・レジャー事故などを分類しています。自然現象が直接の原因となった地震・台風・噴火などは「災害」に分類しています。掲載事件は、事故調査委員会の報告書や判決文、信頼できる報道機関の記事など公的資料に基づき事実関係を確認したうえで記録しています。
121 件
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昭和電工川崎工場爆発事故
1964年(昭和39年)6月11日、神奈川県川崎市の昭和電工川崎工場で、漏洩した酸化プロピレンに引火して爆発が発生し、18人が死亡、117人が負傷した事故。犠牲者の多くは増設工事にあたっていた下請け労働者だった。
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三井三池炭鉱三川鉱炭じん爆発事故
1963年(昭和38年)11月9日、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱三川坑で、坑内を暴走した石炭運搬用トロッコから出火し炭じんが爆発した。爆発そのものによる犠牲に加え、坑内に高濃度の一酸化炭素が長時間滞留したことで多数の坑員が中毒し、死者458人・一酸化炭素中毒患者839人にのぼる戦後最悪の炭鉱事故となった。
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鶴見事故
1963年(昭和38年)11月9日21時51分ごろ、横浜市鶴見区の国鉄東海道本線鶴見〜横浜間で、貨物線を走行中の下り貨物列車の後部3両が脱線し、隣の旅客線に進入してきた上り横須賀線電車が衝突、その車両がさらに下り横須賀線電車に突っ込んだ列車多重衝突事故。死者161人、負傷者119人(運輸大臣の国会報告による)。脱線の原因は特定の過失ではなく、走行状態・線路条件・車両の特性など複数の悪条件が重なった「競合脱線」と推定され、刑事責任は問われなかった。同じ日に福岡県の三井三池炭鉱でも炭じん爆発事故が起きており、この日は「魔の土曜日」とも呼ばれる。事故を受けて国鉄は北海道に狩勝脱線実験線を設けて実車による脱線試験を重ね、脱線防止レールの増設や貨車車輪の形状改良につなげた。
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みどり丸沈没事故
1963年(昭和38年)8月17日、那覇と久米島を結ぶ貨客船「みどり丸」が那覇沖で横波を受けて転覆・沈没し、死者86人、行方不明者26人、あわせて112人の犠牲者を出した。沖縄の戦後海難史上最大級の惨事となった。
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南武線久地駅・津田山駅間踏切事故
1962年(昭和37年)8月7日、川崎市の南武線久地駅・津田山駅間の踏切で、トラックと電車が衝突したのち対向電車とも二重に衝突する事故が発生し、3人が死亡、154人が重軽傷を負った。踏切事故対策の強化を促す契機となった。
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香春町上清炭鉱火災
1961年(昭和36年)3月9日、福岡県田川郡香春町の上清炭鉱で坑内火災が発生し、坑内にいた作業員71人が死亡した。戦後の日本国内における炭鉱火災としては最大の死者数となり、同月16日には田川市体育館で合同葬が営まれ、昭和天皇・香淳皇后から花料が下賜された。
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豊州炭鉱水没事故
1960年(昭和35年)9月20日未明、福岡県田川郡川崎町の上尊鉱業豊州炭鉱で、集中豪雨により増水した中元寺川の川底が陥没し、坑内に川の水が大量に流れ込んで水没した事故。坑内で作業していた約220人のうち67人が逃げ遅れて死亡し、二次災害のおそれから多くの遺体は収容されないまま坑内に取り残された。
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宮森小学校米軍機墜落事故
1959年(昭和34年)6月30日、沖縄県石川市(現・うるま市)の宮森小学校に、整備不良で操縦不能となった米軍のジェット戦闘機が墜落した事故。児童11人を含む18人が死亡し、210人が負傷した。
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六軒事故
1956年(昭和31年)10月15日夜、三重県松阪市の参宮線六軒駅で、信号確認を誤った下り快速列車が安全側線に進入して脱線し、20秒後に上り快速列車が衝突した事故。修学旅行中の高校生を含む42人が死亡、94人が負傷し、事故を機に自動列車停止装置(ATS)の全国導入が進んだ。
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茂尻炭鉱ガス爆発事故
1955年(昭和30年)11月1日、北海道赤平市の茂尻炭鉱(雄別炭礦茂尻鉱業所)で坑内のガス爆発が発生し、死者60人、負傷者17人を出した事故。同炭鉱では1935年にも95人が死亡する爆発事故が起きている。
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森永ヒ素ミルク中毒事件
1955年(昭和30年)、森永乳業徳島工場で製造された粉ミルクに、乳質安定剤として加えた第二燐酸ソーダを通じてヒ素が混入し、西日本を中心に粉ミルクを飲んだ乳児が中毒を起こした事件。8月24日に岡山県から厚生省へ報告され、原因が公表された。厚生省の1956年6月の発表では被害者は12,131人、うち死者は130人。一度は「後遺症はない」とされたが、14年後の追跡調査で被害が続いていることが明らかになり、刑事裁判では差戻し後に工場の製造課長の有罪が確定した。1974年には救済にあたる財団法人ひかり協会が設立された。
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墨田区花火問屋爆発事故
1955年(昭和30年)8月1日、東京都墨田区厩橋で玩具用花火の卸問屋が経営する花火工場の倉庫が爆発し、18人が死亡、80人以上が重軽傷を負った。周辺の13棟385坪が全焼し、半径300メートル以内の建物にも窓ガラスや屋根瓦の被害が及んだ。
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橋北中学校水難事件
1955年7月28日、三重県津市立橋北中学校の水泳訓練中、中河原海岸(文化村海岸)で女子生徒約100人が一斉に溺れ、36人が死亡した。校長・教頭・体育主任の3人が業務上過失致死罪で起訴され、津地方裁判所は執行猶予付きの禁錮刑を言い渡したが、名古屋高等裁判所は女子生徒らを押し流した異常な流れを予見不可能な「不可抗力」と認定して無罪を言い渡し、検察が上告せず確定した。
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紫雲丸事故
1955年(昭和30年)5月11日午前6時56分、濃霧に包まれた香川県高松港沖で、日本国有鉄道の宇高連絡船「紫雲丸」と貨車運航船「第三宇高丸」が衝突し、紫雲丸が沈没して乗客乗員168人が死亡・行方不明となった。犠牲者のうち108人は4つの小中学校の修学旅行の一行で、児童・生徒だけで100人を数えた。前年の洞爺丸事故に続く国鉄連絡船の大惨事として社会に衝撃を与え、高等海難審判庁は両船船長の職務上の過失を認定。濃霧による欠航の多発は、のちの瀬戸大橋建設の機運を高める一因ともなった。
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洞爺丸事故
1954年(昭和29年)9月26日夜、台風15号(洞爺丸台風)による強風の中、青函連絡船「洞爺丸」が北海道・函館港沖の七重浜沖合で転覆・沈没した事故。乗員乗客1314人のうち1155人が死亡・行方不明となり、日本海難史上最悪の惨事となった。この事故を契機に、本州と北海道を結ぶ青函トンネルの建設構想が具体化した。
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鳥取大火
1952年(昭和27年)4月17日午後2時55分ごろ、鳥取市吉方の市営動源温泉付近から出火した火災は、フェーン現象による南南西の強風にあおられて市街地を焼き払い、翌18日未明に鎮火するまでに約12時間燃え続けた。焼失面積は約44万9千平方メートル、罹災世帯は5,700を超え、鳥取市の中心市街地の大半が失われた。戦後の日本で最大規模の都市大火のひとつとされ、この復興過程で全国初の防火建築帯が指定されるなど、市街地の不燃化と都市計画の転換点となった。
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愛媛県国鉄バス火災事故
1951年(昭和26年)11月3日、愛媛県東宇和郡野村町(現・西予市)付近で、秋祭りに向かう乗客で超満員の国鉄バスが、車内に持ち込まれた映画用フィルムの発火により炎上した事故。事故4日後の国鉄総裁の国会報告では死者33人、重傷者8人、軽傷者8人。運輸省は直ちにバスへのフィルムの持ち込みを厳禁した。
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大原劇場火災
1951年(昭和26年)5月19日午後2時50分ごろ、北海道厚岸郡浜中村(現・浜中町)の茶内市街にあった映画館「大原劇場」で火災が発生した。上映中のフィルムから映写室内で出火し、火元の映写室が出入口の近くにあったうえ、非常口にかんぬきがかけられていたため、多くの観客が避難できなかった。小・中学生ら39人を含む42人が死亡する惨事となった。
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国鉄桜木町電車火災事故
1951年(昭和26年)4月24日、横浜市中区の国鉄京浜東北線桜木町駅構内で、架線工事のミスにより垂れ下がった架線に電車のパンタグラフが接触して短絡し、先頭車両が全焼した事故。死者106人、負傷者92人にのぼり、戦後の国鉄が起こした重大事故の一つに数えられる。当時の63系電車は中段が固定された3段窓で乗客が窓から脱出できず、非常用ドアコックの位置も乗客に周知されていなかったため、多くの乗客が炎上する車内に閉じ込められた。架線工事の担当作業員や運転士らが業務上過失致死罪などで禁錮刑の実刑判決を受けたほか、この事故を契機に非常用ドアコックの設置・表示の義務化、3段窓の廃止、車両の不燃化など、鉄道車両の安全基準が大きく見直された。
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松山城筒井門等焼失事故
1949年(昭和24年)2月27日、愛媛県松山市の松山城で火災が発生し、本丸に通じる筒井門とその東続櫓・西続櫓の3棟(いずれも当時の国宝)が焼失した。出火原因は、城内にいた精神疾患の患者がたき火をしたことによるとされ、天守など他の建造物は焼失を免れた。焼失した3棟はその後、旧国宝の指定を解除された。
出典: https://jiken.jp/category/accident/?page=5(2026-10-30 取得)/ 事件JP