八甲田雪中行軍遭難事件 通称: 八甲田山雪中行軍遭難

発生日 1902年1月23日(明治35年) 1902年(明治35年)の事件 / 1月23日に起きた事件
経過 発生から124年9か月
発生場所 青森県 青森市(八甲田山北麓の鳴沢・駒込川流域ほか)
種別 事故
状態 終結
被害 死者 199人
1902年(明治35年)1月23日、青森の歩兵第五聯隊第二大隊の210人が、雪中に青森から田代を経て三本木平野へ進出できるかを調べるため、八甲田山麓の田代に向けて一泊の行軍に出発し、猛吹雪と記録的な寒波の中で道を失って遭難した事件。210人のうち199人が死亡し、生存者は11人だった。気象庁の記録では、同じ寒波のさなかの1月25日に旭川で国内の観測史上最低の氷点下41.0度が観測されている。陸軍の報告書『遭難始末』は悪天候を大きな原因として記録したが、近年の研究では、政治的な意図で事実が隠されたことも指摘されている。
八甲田雪中行軍遭難事件を象徴する概念イラスト
※イメージ画像(生成AIによる概念イラストであり、実際の現場・関係者を写したものではありません)
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行軍の目的と計画

歩兵第五聯隊は青森に置かれた陸軍第八師団の部隊で、寒冷地での行動を課題としていた。青森市民図書館の資料は、この雪中行軍を、日露戦争を間近に控え、寒冷地であるロシアとの戦いに備えた作戦だったと説明している。聯隊が1902年7月にまとめた報告書『遭難始末』によると、行軍の目的は、雪の中で青森から田代を経て三本木平野(現在の十和田市方面)に進出できるかどうかを判断するため、田代に向けて一泊の行軍を行い、進出できるとすれば戦時編成の1個大隊の行軍計画などを立てることにあった。1月18日には、中隊長の神成大尉の指揮で小峠までの予行行軍が行われた。1月21日、第二大隊長の山口少佐が田代への一泊行軍を命じた。参加したのは、山口少佐以下210人である。
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出発と最初の露営

『遭難始末』によると、行軍隊は1月23日午前6時55分に青森の屯営を出発した。この日は青森としては冬の普通の天候で、最低気温は氷点下6度、風雪もそれほど激しくなかった。しかし、山に入ると次第に風雪が強まり、物資を載せたそりの隊が大きく遅れた。行軍隊は田代にたどり着けず、夜になって鳴沢の付近で露営することになった。露営地は風雪を避けることができない場所で、隊員は雪を踏み固めて休む場所を作った。凍傷で体の自由を失う者が出て、物資を運ぶ兵も負担に耐えられず倒れていった。人員を確かめると、この時点ですでに総員の4分の1を失っていたという。なお、『遭難始末』は、行軍の様子はもっぱら倉石大尉ら生存者の口述をもとにまとめたものだと注記している。

道を失った行軍隊

1月24日未明、大隊長は帰営を命じたが、行軍隊は猛吹雪の中で道を失い、駒込川の渓谷などに阻まれて山中をさまよった。『遭難始末』によると、25日の午前3時ごろに人員を確かめた際には、約3分の1がすでに倒れ、3分の1は凍傷で動く自由を失い、比較的健全なのは残りの3分の1だった。その後も隊員は次々と倒れ、行軍隊はいくつかの群れに分かれた。山口少佐のいた倉石大尉の一群は駒込川の渓谷に迷い込み、帰路を見つけた神成大尉の一群も、大滝平の付近でついに倒れた。遭難した山中では気温の記録が残っていない。『遭難始末』は、測定に努めた看護長が寒暖計を手にしたまま倒れたと記している。

記録的な寒波

気象庁の観測データによると、青森では1月24日の日平均気温が氷点下11.0度、最高気温が氷点下8.0度、最低気温が氷点下12.3度だった。積雪は23日の87センチから、26日には122センチまで増えた。『遭難始末』は、この日の青森の平均気温が1882年の測候所の創設以来、前例のない低さだったと記し、1日の気温の差が小さく、最高気温でも氷点下8度だったことを遭難の大きな原因に挙げている。遭難地の気温は少なくとも氷点下20度以下、風速は生存者の証言から少なくとも秒速29メートル前後と推定されているが、いずれも実測ではない。この寒波は全国に及び、気象庁の記録では、1月25日に旭川で氷点下41.0度、26日に帯広で氷点下38.2度が観測された。旭川の値は、現在も国内の最低気温の記録である。

救援と捜索

行軍隊が戻らないことから、聯隊は救援隊を編成して山に向かわせた。『遭難始末』によると、1月27日午前10時ごろ、救援隊は大滝平を過ぎたあたりで、雪の中に立ちつくす1人の兵士を見つけた。後藤房之助伍長で、すでに意識を失いかけていたが、軍医の救急処置で息を吹き返した。近くでは神成大尉が雪に埋もれた状態で見つかった。その後、捜索は弘前の第三十一聯隊や工兵隊、雇われた地元の人夫なども加わる大規模なものとなり、生存者が順次救出された。救出されて青森衛戍病院に入院したのは17人だったが、入院後に亡くなった人もおり、最終的に210人のうち199人が死亡し、生存者は11人となった。すべての遺体が見つかり、捜索が終わったのは5月28日だった。

事件の処理と記憶

遭難は新聞で全国に伝えられ、各地から遺族に義捐金が寄せられた。『遭難始末』によると、死者は「忌ムベキ凍死」ではなく「公務ニ殉シタル義死」として扱われることになり、陸軍が葬儀と祭典を行った。青森市民図書館の資料によると、これまでは未曾有の悪天候を原因とする天災説が強調されてきたが、最近の研究では、徴兵を嫌う世論を恐れた政府や軍当局が責任論を鎮める必要があったことなど、政治的な意図で事実が隠されたことが指摘されている。1903年には幸畑に墓地が定められて埋葬式が行われ、幸畑陸軍墓地は現在、青森市の史跡に指定されている。隣には八甲田山雪中行軍遭難資料館がある。この遭難は、新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』とその映画化(1977年)によって広く知られるようになった。国立国会図書館は、八甲田山の名が全国に知られるようになったのはこの遭難がきっかけだったとしている。

審理・経過の流れ

  1. 事件・事故 1902年1月23日
  2. 事件・事故 1902年1月24日 +1日

経過

  1. 1902年1月18日
    明治35年

    その他 神成大尉の中隊が小峠まで予行行軍

  2. 1902年1月21日
    明治35年

    その他 第二大隊長が田代への一泊行軍を命令

  3. 1902年1月23日
    明治35年

    事件・事故 第二大隊の210人が青森の屯営を出発

    夜、鳴沢付近で露営

  4. 1902年1月24日
    明治35年

    事件・事故 帰営を目指すも猛吹雪で道を失う

    青森の日平均気温は氷点下11.0度

  5. 1902年1月25日
    明治35年

    その他 旭川で国内最低の氷点下41.0度を観測

    同じ寒波のさなか

  6. 1902年1月27日
    明治35年

    捜査 救援隊が大滝平付近で後藤伍長を発見

  7. 1902年5月28日
    明治35年

    捜査 すべての遺体が見つかり捜索が終わる

  8. 1902年7月
    明治35年

    その他 歩兵第五聯隊が報告書『遭難始末』をまとめる

  9. 1903年
    明治36年

    その他 幸畑に墓地を定め埋葬式を行う

  10. 1962年6月9日
    昭和37年

    その他 雪中行軍遭難六十周年記念式典

  11. 2002年6月23日
    平成14年

    その他 雪中行軍遭難百周年慰霊式典

出典・公的資料

一次資料 4件 判決文・白書・調査報告書・法令など、原典にあたれる資料を掲載しています。

  • 調査報告書
    歩兵第五聯隊(国立国会図書館デジタルコレクション)  1902年7月1日発行
    行軍の目的、山口少佐以下210人、各日の行軍の経過、生存者の口述による編纂であること、気象の記述(青森の観測史上の低温、推定風速)、救援と捜索、入院17人、5月28日の捜索終了、「義死」としての扱いを確認
  • 調査報告書
    気象庁
    1月24日の平均・最高・最低気温と積雪の推移を確認
  • 調査報告書
    気象庁
    旭川の氷点下41.0度(1902年1月25日)と帯広の氷点下38.2度(同26日)を確認
  • 調査報告書
    陸軍省(防衛省防衛研究所所蔵、アジア歴史資料センター)
    陸軍省の公文書として遭難に関する電報類が残されていることを確認
  • その他
    青森市民図書館  2013年1月18日発行
    日露戦争に備えた作戦という位置づけ、210人中生存11人・死者199人、天災説と事実の隠蔽の指摘、1903年の幸畑墓地を確認
  • その他
    青森市民図書館  2015年11月13日発行
    1962年6月9日の六十周年記念式典、2002年6月23日の百周年慰霊式典、資料館を確認
  • その他
    国立国会図書館
    210名中199名が死亡、義捐金、八甲田山の名が知られる契機になったこと、小説・映画化を確認

さらに調べるには

資料の探し方や引用の書き方は調べ学習・レポートでの使い方にまとめています。

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「八甲田雪中行軍遭難事件」事件JP、2026年10月27日閲覧。https://jiken.jp/cases/1902-hakkoda-snow-march/
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更新履歴

  • 2026年10月14日 初版公開

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