大之浦炭鉱爆発事故
| 発生日 | 1909年11月24日(明治42年) |
|---|---|
| 経過 | 発生から116年8か月 |
| 発生場所 | 福岡県 鞍手郡宮田町(現・宮若市) |
| 種別 | 事故 |
| 状態 | 終結 |
福岡県の筑豊炭田・大之浦炭鉱(桐野坑)で発生した炭じんガス爆発事故。資料により死者・行方不明者は243人から259人とされる。
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事故の経過
1909年(明治42年)11月24日、福岡県鞍手郡宮田町(現・宮若市)にあった大之浦炭鉱の桐野坑で、炭じんを伴うガス爆発事故が発生した。当時の筑豊炭田は日本有数の産炭地であり、大之浦炭鉱もその中核をなす大規模炭鉱の一つであった。爆発は坑内深部で発生し、多数の坑夫が巻き込まれる大惨事となった。
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死傷者数について
本事故の死者・行方不明者数については、資料によって243人、256人、259人などとする複数の記録があり、当サイトで確認できた範囲では一つの数値に絞り込むことができなかった。明治期の炭鉱事故は、負傷者の死亡による死者数の増減や、行方不明者の扱いなどにより集計方法が資料ごとに異なることが多く、本事故もそうした事例の一つとみられる。いずれの数値であっても、日本の炭鉱事故史上に残る規模の惨事であったことに変わりはない。
筑豊炭田と鉱山事故
明治期から大正・昭和にかけて、筑豊炭田では急速な増産が進められる一方、坑内の保安体制の整備が追いつかず、ガス爆発や炭じん爆発による大規模な労働災害が繰り返し発生した。大之浦炭鉱の事故も、そうした近代日本の産炭地が抱えていた構造的な問題を象徴する事故として、鉱山災害の歴史の中で位置づけられている。
経営した貝島炭鉱の歴史
大之浦炭鉱を経営していた貝島炭鉱は、創業者・貝島太助が1885年に開坑して以来、麻生・安川と並ぶ「筑豊御三家」の一つに数えられた大手炭鉱会社であった。貝島家は家族主義経営を掲げ、従業員とその家族のために学校や病院を整備するなど、企業城下町的な発展を遂げていたが、その繁栄の陰で、増産を急ぐ採掘現場では保安体制の整備が追いつかず、本事故のような大規模な労働災害が繰り返された。同社は戦後も操業を続けたが、1976年に閉山した。
筑豊炭田の労働災害史
筑豊炭田は明治期から昭和にかけて日本最大級の産炭地として栄え、多数の中小炭鉱がひしめく中で、ガス爆発や炭じん爆発による労働災害が繰り返し発生した。大之浦炭鉱の事故は、そうした筑豊炭田の歴史における代表的な惨事の一つに数えられている。
経過
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1909年11月24日
明治42年事件・事故 大之浦炭鉱でガス爆発が発生
死者・行方不明者は資料により243人から259人とされる。
出典・公的資料
一次資料 1件 判決文・白書・調査報告書・法令など、原典にあたれる資料を掲載しています。
- その他
- 調査報告書
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「大之浦炭鉱爆発事故」事件データベース jiken.jp、2026年8月3日閲覧。https://jiken.jp/cases/1909-oinoura-coal-mine-explosion/
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