四日市ぜんそく 通称: 四日市公害

発生日 1967年9月1日(昭和42年) 1967年(昭和42年)の事件 / 9月1日に起きた事件
経過 発生から59年1か月
発生場所 三重県 四日市市(磯津地区・塩浜地区ほか)
種別 災害
状態 終結
  • 事件が変えた法律・制度判決後に、生活補償を含む公害健康被害補償法(1973年)が制定された。三重県が全国に先がけて導入した硫黄酸化物の総量規制は、1974年に大気汚染防止法に取り入れられた。
  • 公害事件 — 四大公害と環境汚染石油化学コンビナートの排煙による大気汚染で、磯津地区などにぜんそく患者が多発した。1972年の判決は6社の共同不法行為を認め、被告は控訴せず判決が確定した。
三重県四日市市で、1959年(昭和34年)に操業を始めた石油化学コンビナートから出る硫黄酸化物などによる大気汚染で、隣接する磯津地区などにぜんそくなどの呼吸器疾患の患者が多発した公害。1967年9月1日、磯津地区の患者9人がコンビナートの6社を相手に損害賠償を求めて提訴し、津地方裁判所四日市支部は1972年7月24日、6社の共同不法行為を認めて原告勝訴の判決を言い渡した。被告は控訴せず判決は確定した。判決は公害健康被害補償法の制定や硫黄酸化物の総量規制など、その後の公害行政に大きな影響を与えた。
四日市ぜんそくを象徴する概念イラスト
※イメージ画像(生成AIによる概念イラストであり、実際の現場・関係者を写したものではありません)
スポンサーリンク

コンビナートの操業と被害の発生

1955年に国が石油化学工業を育成する方針を打ち出したことを受け、四日市市の旧海軍燃料廠の跡地に、日本で初めての石油化学コンビナートがつくられ、1959年から本格的に操業を始めた(第1コンビナート)。四日市市の資料によると、操業開始の直後の1960年ごろから、工場に隣接する磯津地区や塩浜地区で呼吸器系の疾患が集中して発生し、1963年ごろに第2コンビナートが操業を始めると被害はさらに深刻になった。公害白書(昭和46年版)は、1959〜60年ごろから硫黄酸化物などによる大気汚染が著しくなり、強いぜんそく性の発作をもつ患者が多く見られるようになったと記している。市は、被害が大きくなった背景として、工場群が住宅地に近接していたこと、燃料の消費量が非常に多かったこと、公害防止への配慮が十分でなかったこと、季節風の影響などを挙げている。同じころ、近海でとれる魚に油の臭いがつくという水質汚濁の問題も起きていた。
スポンサーリンク

市による救済の始まり

1964年、四日市は、ばい煙の排出を規制する法律の指定地域となったが、市の資料によると、排出基準は現状を追認する程度のものだった。1965年、四日市市は公害関係医療審査会を設け、認定した患者の医療費の自己負担分を市が負担する制度を全国に先がけて始めた。当初認定されたのは18人で、そのうち14人は入院患者だった。この制度のもとで認定された患者は、1970年1月の時点で464人となった。1969年12月には国の「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」が公布され、四日市市はその指定地域となった。この法律による認定患者は、1974年8月の時点で1,042人に上った。

四日市公害訴訟

1967年9月1日、磯津地区に住む公害認定患者9人が、第1コンビナートの6社を相手取り、津地方裁判所四日市支部に損害賠償を求める訴えを起こした。公害白書によると、請求額は約8,300万円だった。被告は、昭和四日市石油、三菱油化、三菱化成工業、中部電力、石原産業など、第1コンビナートを構成する6社である。訴訟の途中で原告の患者が亡くなり、判決の時点での原告は12人(うち患者7人)となっていた。審理では、大気汚染と疾患との関係を示す疫学調査が証拠として重視された。1972年7月24日、津地裁四日市支部は原告勝訴の判決を言い渡した。判決後の仮執行では、石原産業が代表して9,500万円を支払った。被告の6社はいずれも控訴せず、判決は確定した。

判決の内容

環境白書(昭和48年版)は判決の要旨を次のように紹介している。判決は、各工場が順次隣接し合って集団的に立地し、ほぼ同じ時期に操業を始めたことなどから、6社の間には客観的な関連共同性があるとして、共同不法行為の責任を認めた。工場の間に緊密な結びつきがある場合には、1つの工場の排出するばい煙が少量であっても責任を免れないとした。故意は否定したが、住民の健康への影響を十分に調べないまま工場を立地した「立地上の過失」と、漫然と操業を続けた過失を認めた。また、企業は経済性を度外視して、世界最高の技術、知識を動員して公害の防止措置を講ずべきだとした。さらに、経済優先で工場の誘致を奨励した国や自治体にも落度があったと指摘したが、それは被告の過失を否定する理由にはならないとした。白書は、この訴訟を、コンビナートを形成する多数の工場からの排出による公害が問題とされた最初の訴訟と位置づけている。

判決が変えた公害行政

四日市市は、判決が被害者の救済にとどまらず、総量規制の実施や環境基準の改定など、その後の公害行政に大きな影響を与えたと総括している。三重県は1972年に公害防止条例を改正し、工場ごとの排出量を合計した総量で規制する硫黄酸化物の総量規制を全国に先がけて導入した。1974年には、国も大気汚染防止法の改正で硫黄酸化物の総量規制を取り入れた。環境白書(昭和50年版)によると、医療費だけでなく生活の補償も含めて被害者を救済する公害健康被害補償法は、判決後に四日市を視察した当時の環境庁長官の発言を契機に策定が急がれ、1973年10月に公布、1974年9月に施行された。判決後の1972年11月には、磯津地区の患者140人と被告6社の間で、判決に準じた補償の協定も成立している。

環境の改善と現在

規制の強化や企業の対策が進んだ結果、四日市市では1976年度に全市域で硫黄酸化物の環境基準を達成した。四日市市の公害健康被害の被認定者は、1975年度末の1,140人をピークに減り、2023年3月末時点では289人となっている。全国の大気汚染の状況が改善したとして、1988年3月1日からは改正された法律が施行され、四日市市を含む全国41の指定地域がすべて解除されて、新たな患者の認定は行われなくなった。すでに認定を受けた患者への補償は続けられている。2015年には、公害の歴史と教訓を伝える「四日市公害と環境未来館」が開館し、2022年には判決から50年を迎えた。

審理・経過の流れ

  1. 事件・事故 1967年9月1日
  2. 判決 1972年7月24日 +1,788日

経過

  1. 1959年
    昭和34年

    その他 第1コンビナートが本格的に操業を開始

  2. 1965年5月
    昭和40年

    その他 四日市市が公害患者の医療費を負担する制度を開始

    当初18人を認定

  3. 1967年9月1日
    昭和42年

    事件・事故 磯津地区の患者9人がコンビナート6社を提訴

    請求額約8,300万円

    津地方裁判所四日市支部

  4. 1969年12月
    昭和44年

    その他 公害健康被害の救済に関する特別措置法が公布され、四日市市が指定地域に

  5. 1972年4月
    昭和47年

    その他 三重県が全国に先がけて硫黄酸化物の総量規制を導入

    県公害防止条例の改正

  6. 1972年7月24日
    昭和47年

    判決 津地裁四日市支部が6社の共同不法行為を認め原告勝訴の判決

    被告6社は控訴せず、判決が確定

    津地方裁判所四日市支部

  7. 1972年11月
    昭和47年

    その他 磯津地区の患者140人と6社が補償協定を結ぶ

  8. 1973年10月5日
    昭和48年

    その他 公害健康被害補償法が公布される

    1974年9月施行

  9. 1974年6月
    昭和49年

    その他 大気汚染防止法の改正で硫黄酸化物の総量規制を導入

  10. 1976年
    昭和51年

    その他 全市域で硫黄酸化物の環境基準を達成

    1976年度

  11. 1988年3月1日
    昭和63年

    その他 全国41の指定地域が解除され、新規の認定が終了

  12. 2015年
    平成27年

    その他 「四日市公害と環境未来館」が開館

出典・公的資料

一次資料 7件 判決文・白書・調査報告書・法令など、原典にあたれる資料を掲載しています。

さらに調べるには

資料の探し方や引用の書き方は調べ学習・レポートでの使い方にまとめています。

関連する法律用語

この記事を引用する

レポート・記事などで本ページを参照する際は、以下の表記をご利用ください。一次資料までたどる方法は調べ学習・レポートでの使い方をご覧ください。

「四日市ぜんそく」事件JP、2026年10月27日閲覧。https://jiken.jp/cases/1967-yokkaichi-asthma/
スポンサーリンク

更新履歴

  • 2026年10月12日 初版公開

本ページは公的資料に基づいて作成しています。情報の誤りにお気づきの場合や、掲載内容の削除・訂正のご依頼は お問い合わせ・削除依頼よりご連絡ください。