新潟水俣病(第二水俣病)確認
| 発生日 | 1965年6月12日(昭和40年) |
|---|---|
| 経過 | 発生から61年2か月 |
| 発生場所 | 新潟県 阿賀野川下流域(新潟市など) |
| 種別 | 災害 |
| 状態 | 終結 |
1965年(昭和40年)6月12日、新潟県阿賀野川下流域で有機水銀中毒による健康被害が公式に確認された。原因は昭和電工鹿瀬工場が排出したメチル水銀で、熊本の水俣病に次ぐ「第二水俣病」として社会問題化した。
広告
発見の経緯
1965年1月、東京大学の椿忠雄助教授が新潟市内の患者を診察し、有機水銀中毒の可能性を疑った。同年5月末、椿らは阿賀野川下流沿岸の集落で原因不明の水銀中毒患者が散発していると報告し、6月12日、新潟県はこれを公式に発表した。
広告
原因と被害の実態
調査の結果、原因物質はメチル水銀であることが判明した。上流の昭和電工鹿瀬工場がアセトアルデヒドを製造する過程で、触媒として使う硫酸第二水銀から副生したメチル水銀を阿賀野川に排出しており、これを蓄積した魚を日常的に食べていた住民の間で中毒症状が広がっていた。熊本県の水俣病に次いで確認されたことから「第二水俣病」「新潟水俣病」と呼ばれるようになった。
裁判と公害対策への影響
被害者らは昭和電工を相手取り損害賠償を求めて提訴し、1971年、新潟地方裁判所は企業の過失責任を認めて原告勝訴の判決を言い渡した。この判決は、公害による健康被害に対する企業責任を明確にした画期的な事例として、その後の四大公害訴訟や公害対策関連法制の整備に大きな影響を与えた。
四大公害病の一つとして
新潟水俣病は、熊本県の水俣病、三重県の四日市ぜんそく、富山県のイタイイタイ病とともに「四大公害病」の一つに数えられている。高度経済成長期の産業活動が引き起こした健康被害の典型例として、公害問題を象徴する事件の一つに位置づけられている。
被害者救済のその後
1971年の勝訴判決以降も、被害の認定基準や救済範囲をめぐる争いは長期化した。2009年には新潟県が独自の救済制度を設けるなど、被害者救済のための取り組みは公式確認から半世紀以上を経た現在も続けられている。
国際的な影響
新潟水俣病を含む水俣病の教訓は、水銀による環境汚染の危険性を国際社会に知らしめる契機ともなった。2013年に採択された水銀の使用規制に関する国際条約は「水俣条約」と名付けられ、日本の公害経験が国際的な環境政策に影響を与えた例として知られている。
教育・伝承の取り組み
新潟市内には水俣病に関する資料館が設置され、被害の実態と教訓を次世代に伝える取り組みが続けられている。
経過
-
1965年6月12日
昭和40年事件・事故 新潟県が有機水銀中毒患者の発生を公式発表
-
1971年9月29日
昭和46年判決 新潟地方裁判所が原告勝訴の判決
新潟地方裁判所
出典・公的資料
- その他
- その他
この記事を引用する
レポート・記事などで本ページを参照する際は、以下の表記をご利用ください。
「新潟水俣病(第二水俣病)確認」事件JP、2026年9月8日閲覧。https://jiken.jp/cases/1965-niigata-minamata-disease-confirmed/
関連事件
関連する事件
広告
本ページは公的資料に基づいて作成しています。情報の誤りにお気づきの場合や、掲載内容の削除・訂正のご依頼は お問い合わせ・削除依頼よりご連絡ください。