繁藤災害 通称: 繁藤大崩壊

発生日 1972年7月5日(昭和47年) 1972年(昭和47年)の事件 / 7月5日に起きた事件
経過 発生から54年3か月
発生場所 高知県 香美郡土佐山田町繁藤(現在の香美市)
種別 災害
状態 終結
被害 死者 60人  負傷者 8人
  • 事故・災害が変えた安全対策救助中の人々が二次崩壊に巻き込まれた教訓は国会で消防・防災のあり方の見直しとして論じられ、2000年の土砂災害防止法案の閣議決定の際にも教訓として挙げられた。
1972年7月5日、昭和47年7月豪雨のさなか、高知県香美郡土佐山田町繁藤(現在の香美市)で起きた大規模な山崩れ。記録的な集中豪雨の中、早朝の小さな山崩れで生き埋めになった消防団員を救出していた人たちを、午前10時55分ごろに起きた大崩壊が直撃し、消防団員や町職員、救助に協力していた住民、取材中の記者らが犠牲になった。死者は60人、負傷者は8人にのぼった。救助活動中に被災した「二次災害」として、国会でも消防・防災のあり方が問われた。
繁藤災害を象徴する概念イラスト
※イメージ画像(生成AIによる概念イラストであり、実際の現場・関係者を写したものではありません)
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記録的な集中豪雨

気象庁高知地方気象台によると、1972年7月4日の午後から6日の昼前にかけて、高知県の中部や東部の山間部を中心に断続的に強い雨が降った。下層に暖かく湿った気流が流れ込み、上層には乾いた寒気が流れ込んで、大気の状態が非常に不安定になったためである。中部の天坪(現在の香美市繁藤)では、5日午前6時までの1時間に95.5ミリ、7時までの1時間に95.0ミリを観測し、4日午前9時から5日午前9時までの24時間降水量は742ミリに達した。高知県は、降り始めからの総雨量が780ミリを超える記録的な大雨で、現在でいう線状降水帯による豪雨だったとしている。国会に派遣された委員は、一昼夜で高知県の年間降水量の3か月分ほどが降ったと報告した。気象庁は、7月3日から13日にかけて全国に被害をもたらした大雨を「昭和47年7月豪雨」と名付けている。
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最初の山崩れと救出活動

1972年7月12日の衆議院災害対策特別委員会での派遣報告によると、7月5日午前6時20分ごろ、繁藤地区の追廻山の山腹で小規模な山崩れが起き、消防団員1人が生き埋めになった。その救出のため、町の関係者や消防団員、一般の協力者など約120人が救出活動にあたった。高知県は、大崩壊の前に予兆となる小崩壊が数回起きていたとしている。救出作業の現場では、山腹から大量のわき水が流れ出していた。

大崩壊

午前10時55分ごろ、救出作業が続く現場で大規模な山崩れが起きた。高知県によると、崩壊の規模は幅約200メートル、高さ約100メートル、土量約10万立方メートルで、降雨が小康状態になったときに大崩壊が起きた。国会の派遣報告によると、崩れた土砂は59人を生き埋めにし、住家10戸を押し流して、国道32号と国鉄土讃線の線路を埋め、繁藤駅の付近に停車していたディーゼル機関車などを押し流して、穴内川を埋め尽くした。被害を受けたのは、町会議員1人、町職員2人、消防士5人、消防分団員13人、国鉄職員4人、救助作業に協力していた一般の人々や取材中の新聞記者など33人で、報告は「大部分の方々が救助活動中に被災するといういわゆる二次災害」だと述べた。最初の山崩れの1人を合わせて死者は60人、負傷者は8人となった。

難航した捜索

捜索には、陸上自衛隊をはじめ町内外から約1,500人が連日動員され、重機も投入された。しかし、土砂の量が多く大雨も断続的に続いたため、作業は難航した。国会の派遣報告によると、7月10日正午の時点で収容できた遺体は35人にとどまっていた。香美市の広報誌によると、河川の一斉捜索を終えて自衛隊が引き上げた時点での遺体の収容数は57人で、最後の行方不明者の遺体が見つかったのは翌年の2月だった。被災地には全国から義援金や救援物資が寄せられた。

原因と国の対応

国会の派遣報告は、地元の当局が山崩れの危険を感じていなかった場所で起きた災害だと指摘し、消防訓練にがけ崩れへの訓練がどの程度組み込まれていたかを問うとともに、一定の雨量などの条件で危険な箇所に早めに避難命令を出すことなどを検討するよう求めた。政府は7月11日の閣議で、翌年度から始める予定だった市町村の災害弔慰金への補助制度の実施を繰り上げ、この災害から適用することを決めた。7月18日の閣議では、救助活動に協力して亡くなった民間の人々に、消防団員に準じて特別の報償金を贈ることを決めた。科学技術庁を中心とする専門家の調査は、繁藤の崩壊を、地下水による地すべり型の崩壊に分類した。

裁判と教訓

犠牲者の遺族らは、国や県、町の責任を問う訴訟を起こした。1984年の国会での議員の発言によると、一審では行政側が敗訴し、控訴した。2000年の国会では、議員が、一審では国家賠償法の対象とされ、二審で逆転判決が出て、最高裁でようやく和解したと紹介し、現場で指揮をとる消防団の判断と訓練のあり方を問うた。2000年3月14日、建設政務次官は国会で、繁藤の山崩れなど過去の土砂災害の教訓を生かして、土砂災害警戒区域などを定める土砂災害防止法案を同日に閣議決定したと答弁した。高知県は、繁藤災害の教訓として、崩壊は一度きりとは限らず、雨が止んだ後もしばらくは土砂災害に警戒することが大切だと呼びかけている。現地には繁藤災害追悼広場があり、毎年7月5日に慰霊祭が行われている。

審理・経過の流れ

  1. 事件・事故 1972年7月5日
  2. 事件・事故 1972年7月5日 +0日

経過

  1. 1972年7月4日
    昭和47年

    その他 高知県中部で記録的な集中豪雨が始まる

    天坪の24時間降水量は742ミリ

  2. 1972年7月5日
    昭和47年

    事件・事故 早朝の小規模な山崩れで消防団員1人が生き埋めに

    約120人が救出活動にあたる

  3. 1972年7月5日
    昭和47年

    事件・事故 救出作業中の現場を大崩壊が直撃

    午前10時55分ごろ。59人が生き埋めに

  4. 1972年7月11日
    昭和47年

    その他 閣議で災害弔慰金の補助制度をこの災害から適用すると決定

  5. 1972年7月12日
    昭和47年

    捜査 衆院災害対策特別委員会で派遣委員が「二次災害」と報告

  6. 1972年7月18日
    昭和47年

    その他 閣議で救助に協力して亡くなった民間人への特別報償金を決定

  7. 1972年10月11日
    昭和47年

    捜査 専門家の調査で地下水による地すべり型の崩壊と分類

    国会で科学技術庁が報告

  8. 1973年2月
    昭和48年

    捜査 最後の行方不明者の遺体が見つかる

  9. 2000年3月14日
    平成12年

    その他 土砂災害防止法案の閣議決定で繁藤の教訓に言及

出典・公的資料

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「繁藤災害」事件JP、2026年10月27日閲覧。https://jiken.jp/cases/1972-shigeto-landslide/
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更新履歴

  • 2026年10月14日 初版公開

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