飛騨川バス転落事故

発生日 1968年8月18日(昭和43年)
経過 発生から58年 1974年12月4日の確定から51年9か月
発生場所 岐阜県 加茂郡白川町(国道41号 飛水峡)
種別 事故
状態 終結
被害 死者 104人
1968年(昭和43年)8月18日午前2時11分ごろ、岐阜県加茂郡白川町の国道41号飛水峡で、集中豪雨による土石流が観光バス2台を飛騨川へ押し落とした。乗員乗客107人のうち104人が死亡し、生存者は3人にとどまった。日本のバス事故として最大の犠牲者数である。名古屋方面から乗鞍岳へ向かっていたバス15台の車列が、進路の土砂崩れで引き返す途中の惨事だった。刑事責任は問われなかったが、国家賠償訴訟で名古屋高等裁判所は「全面的な人災」と認定し、国の賠償責任を認めた。この事故を機に、雨量に応じて道路を通行止めにする異常気象時通行規制の制度がつくられた。
飛騨川バス転落事故を象徴する概念イラスト
※イメージ画像(生成AIによる概念イラストであり、実際の現場・関係者を写したものではありません)
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事故の発生

1968年(昭和43年)8月18日午前2時11分ごろ、岐阜県加茂郡白川町を通る国道41号の飛水峡で、道路脇の斜面から土石流が発生した。国道の64.3キロメートル地点、上麻生ダムの下流約330メートルにあたる場所である。 流れ出た土砂の量は3,000立方メートルから7,000立方メートルと推定されている。斜面の標高440〜490メートル付近から、国道まで直線距離で600〜700メートルを毎秒10メートル前後の速度で駆け下り、路上に停車していた観光バス2台を直撃した。バスはガードレールを破って約10メートル下の飛騨川へ転落し、増水した濁流に呑まれた。 前日の17日夜から東海地方には集中豪雨が降り続いており、周辺のアメダス観測点では激しい雨が記録されていた。深夜の暗闇と豪雨のなかで、乗客は斜面の異変に気づく余地がなかった。
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バス隊が引き返すまで

このバス隊は、名古屋を出発して乗鞍岳の御来光を見に向かう団体ツアーの一行だった。旅行を企画した会社と旅行代理店が手配した観光バス15台が、国道41号を北上していた。 ところが18日午前0時5分ごろ、進路の先にあたる国道41号78キロメートル地点で大規模な土砂崩れが起き、通行できなくなった。この時点で乗鞍岳の日の出には間に合わないと判断され、主催者と代理店の協議によりバス隊は引き返すことになった。 引き返す途中、車列は雨と落石のために飛水峡で停止を余儀なくされる。前にも後ろにも進めない状態のまま、路上で待機している最中に土石流が襲った。判断のどこに問題があったのかは、のちの民事裁判で最大の争点となる。

被害と救助

転落した2台には合わせて107人が乗っていた。このうち104人が死亡し、助かったのは3人だけである。犠牲者のうち8人は遺体が発見されなかった。バスは飛騨川の濁流に流され、捜索は下流の広い範囲に及んだ。 単一のバス事故としては日本で最大の犠牲者数であり、家族連れの参加者が多かったため一家全員が亡くなった世帯もあった。救助と捜索は増水した川と続く雨のなかで難航し、遺体の収容には長い時間を要している。 事故現場となった飛水峡には慰霊碑が建てられ、現在も慰霊が続けられている。

刑事責任と国家賠償訴訟

刑事責任について、岐阜地方検察庁は1969年3月25日に不起訴処分を発表した。当時の通信環境では気象警報の伝達に時間がかかり、現場で危険を知る手立てが乏しかったことなどが理由とされた。 遺族はこれに納得せず、1969年12月1日、40世帯119人が国を相手取って名古屋地方裁判所に損害賠償を求める訴えを起こした。請求額は総額5億2,312万2,000円である。 1973年3月30日の一審判決は、この事故を「天災と人災の競合」と位置づけ、請求額の14.4パーセントにあたる約9,396万円の支払いを命じた。原告・被告双方が控訴し、1974年11月20日、名古屋高等裁判所は一転して「全面的な人災」と認定する判決を言い渡した。道路管理者である国が危険を予見して通行止めなどの措置をとるべきだったとして、約4億255万円の支払いを命じるものだった。 国は上告せず、同年12月4日に判決が確定した。翌5日から、利息を含む総額約5億2,104万円が132人に支払われている。

道路防災の転換点

この事故は、雨のときに道路をどう管理するかという問題を制度の形にした。1969年4月1日、建設省の通達によって「異常気象時通行規制」の制度が設けられる。あらかじめ区間ごとに雨量の基準を定めておき、連続雨量がその値に達したら通行注意や通行止めにするという仕組みである。 国道41号にはこの制度に基づく規制が導入され、雨量テレメーターと通行止めゲートが設置された。当初は連続雨量80ミリで通行注意、120ミリで通行止めという基準が用いられ、のちに見直されている。 道路の危険情報を集約して運転者に伝える仕組みも整えられ、1970年1月には日本道路交通情報センターが発足した。異常気象時に道路を閉じるという発想は現在では当たり前のものになっているが、その出発点にはこの事故がある。

審理・経過の流れ

  1. 事件・事故 1968年8月18日
  2. 公判 1969年12月1日 +470日
  3. 判決 1973年3月30日 +1,215日
  4. 判決 1974年11月20日 +600日
  5. 判決 1974年12月4日 +14日

経過

  1. 1968年8月18日
    昭和43年

    事件・事故 土石流により観光バス2台が飛騨川へ転落

    国道41号飛水峡で、乗員乗客107人のうち104人が死亡した。

  2. 1969年3月25日
    昭和44年

    その他 岐阜地方検察庁が不起訴処分を発表

    当時の通信環境では気象警報の伝達が間に合わなかったことなどを理由とした。

  3. 1969年4月1日
    昭和44年

    その他 異常気象時通行規制の制度が創設される

    建設省通達により、区間ごとに雨量の基準を定めて通行注意・通行止めを行う仕組みが導入された。

  4. 1969年12月1日
    昭和44年

    公判 遺族40世帯119人が名古屋地方裁判所に国家賠償請求訴訟を提起

    請求額は総額5億2,312万2,000円。

    名古屋地方裁判所

  5. 1973年3月30日
    昭和48年

    判決 名古屋地方裁判所が「天災と人災の競合」と認定

    請求額の14.4パーセントにあたる約9,396万円の支払いを命じた。

    名古屋地方裁判所

  6. 1974年11月20日
    昭和49年

    判決 名古屋高等裁判所が「全面的な人災」と認定

    道路管理者である国の責任を認め、約4億255万円の支払いを命じた。

    名古屋高等裁判所

  7. 1974年12月4日
    昭和49年

    判決 国が上告せず控訴審判決が確定

    翌5日から利息を含む総額約5億2,104万円が132人に支払われた。

    名古屋高等裁判所

出典・公的資料

一次資料 1件 判決文・白書・調査報告書・法令など、原典にあたれる資料を掲載しています。

関連する法律用語

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「飛騨川バス転落事故」事件JP、2026年9月8日閲覧。https://jiken.jp/cases/1968-hida-river-bus-accident/

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更新履歴

  • 2026年8月24日 初版公開

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