米騒動 通称: 大正7年米騒動

発生日 1918年7月23日(大正7年)
経過 発生から108年1か月
発生場所 富山県 下新川郡魚津町(現・魚津市)を発端に全国へ波及
種別 その他
状態 終結
1918年(大正7年)7月、富山県の魚津町(現・魚津市)で、米の県外移出に反対する住民の行動が起きた。米価の急騰に苦しむ人々の動きは富山湾沿岸から全国へ波及し、8月中旬に頂点を迎える。政府の集計では1道3府37県の369か所で騒じょうが発生し、鎮圧のため3府23県に軍隊が出動した。検挙者は2万5千人を超え、7,786人が起訴されている。政府は新聞に対して事件の報道を禁じたが混乱は収まらず、9月に寺内正毅内閣が総辞職して、初の本格的な政党内閣である原敬内閣の成立につながった。
米騒動を象徴する概念イラスト
※イメージ画像(生成AIによる概念イラストであり、実際の現場・関係者を写したものではありません)
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米価の高騰

第一次世界大戦下の日本は好景気に沸く一方で、物価の上昇が家計を圧迫していた。とりわけ米価の上がり方は激しく、1918年(大正7年)に入ってからの半年あまりで急騰した。凶作によるものではなく、シベリア出兵の見通しを織り込んだ地主・米商人の買い占めと売り惜しみが直接の要因とされる。 政府は外国米の輸入税を撤廃するなどの手を打ったが、価格を抑えるには至らなかった。賃金の上昇が物価に追いつかず、日々の米を買えない世帯が各地に生じていた。騒動が最初に起きた富山県の沿岸部は、漁業と出稼ぎに支えられた地域で、米を買って暮らす世帯が多く、価格の高騰が生活に直結する構造にあった。
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富山湾岸での発端

1918年7月23日、富山県下新川郡魚津町(現・魚津市)の大町海岸で、漁師の妻たち数十人が旧十二銀行の米倉庫前に集まった。倉庫から船へ積み込まれようとしていた米について、県外への移出をやめ、地元に売るよう求めたものである。魚津市には現在も「米騒動発祥の地」の碑が建てられている。 これに先立つ7月22日には富山市でも同様の動きがあり、発端をどの日のどの町に置くかについては複数の見方がある。いずれにせよ、富山湾沿岸の町々で同じ要求が相次いで起き、8月に入ると中新川郡の西水橋町・東水橋町、滑川町へと広がった。 これらの動きが新聞に「越中女一揆」として報じられたことが、全国への波及の引き金となった。米が買えないという問題が富山だけのものではなかったため、報道は各地の住民に自分たちの問題として受け取られた。

全国への波及と軍隊の出動

8月に入ると騒動は京都・名古屋・大阪といった都市部へ飛び火し、8月11日から16日にかけて頂点に達した。米屋や精米業者への押しかけ、廉売の要求、役場への陳情といった形をとり、地域によっては警察との衝突に発展した。炭鉱地帯では労働争議と結びついた大規模な騒じょうも起きている。 最終的な発生範囲は1道3府37県の369か所にのぼった。警察力では抑えきれないと判断した政府は軍隊を投入し、3府23県に延べ10万人以上の兵力が出動した。国内の民衆運動に対してこれほどの規模で軍隊が用いられたことは、当時としても異例だった。

報道禁止と司法処分

政府は8月14日、新聞に対して米騒動に関する記事と号外の発行を禁じる措置をとった。だが報道を止めても事態は収まらず、かえって政府への不信を強める結果となった。この報道禁止をめぐっては、新聞各社が言論の自由の観点から強く反発し、内閣打倒を掲げる動きにつながっている。 司法の側では、検挙された者が2万5千人を超え、うち7,786人が起訴された。第一審では死刑2人、無期懲役12人、10年以上の有期刑59人という重い判決が言い渡されている。生活苦を背景とする行動に対して極刑を含む処断が行われたことは、当時の司法と社会の距離を示す事例としてしばしば取り上げられる。

内閣総辞職と政党内閣の成立

騒動の責任を問われた寺内正毅内閣は、1918年9月20日に総辞職した。後継として9月29日に成立したのが、立憲政友会総裁の原敬を首相とする内閣である。衆議院に議席を持つ政党の党首が首相となり、閣僚の多くを政党員が占めた初の本格的な政党内閣として、日本の議会政治史の画期に位置づけられている。 米騒動そのものは特定の指導者や組織を持たない自然発生的な動きだったが、その規模と広がりが政権を倒し、政治の仕組みを動かした。生活の困窮が政治の転換につながった事例として、また、報道統制が事態を沈静化させるどころか逆効果となった事例として、後の時代にも参照され続けている。

経過

  1. 1918年7月23日
    大正7年

    事件・事故 魚津町の米倉庫前で県外移出の中止を求める行動が起きる

    漁師の妻たち数十人が旧十二銀行の米倉庫前に集まり、米の積み出し中止と地元への販売を求めた。

  2. 1918年8月14日
    大正7年

    その他 政府が新聞に米騒動関連記事の掲載を禁止

    記事と号外の発行を禁じたが事態は収まらず、新聞各社の反発を招いた。

  3. 1918年9月20日
    大正7年

    その他 寺内正毅内閣が総辞職

    騒動の責任を問われ、内閣が総辞職した。

  4. 1918年9月29日
    大正7年

    その他 原敬内閣が成立

    衆議院に議席を持つ政党の党首が首相となる、初の本格的な政党内閣となった。

出典・公的資料

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「米騒動」事件JP、2026年9月8日閲覧。https://jiken.jp/cases/1918-rice-riots/

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更新履歴

  • 2026年8月24日 初版公開

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