銀座大火

発生日 1872年4月3日(明治5年) 1872年(明治5年)の事件 / 4月3日に起きた事件
経過 発生から154年6か月
発生場所 東京都 中央区(銀座・築地)ほか
種別 事故
状態 終結
被害 死者 8人
  • 事故・災害が変えた安全対策銀座・築地一帯を焼いた明治初期の大火。これを契機に政府は銀座を耐火構造の街並みに改造し、日本初の煉瓦街を建設した。
明治5年2月26日(西暦1872年4月3日)午後3時ごろ、東京の和田倉門内にあった旧会津藩邸から出火し、強風にあおられて丸の内・銀座・築地一帯の東京の中心地を焼いた大火。消防防災博物館の資料では焼失は41か町・4,879戸、死者は8人とされる。この火災をきっかけに、政府は銀座を耐火構造の西洋風の街並みに改造することを計画し、東京府知事の由利公正の主導、大蔵省雇いのトーマス・ウォートルスの設計で、大通りの幅を15間(約27メートル)とする日本初の煉瓦街が建設された。東京の市街地全体を不燃化する構想は、銀座の一地域にとどまった。
銀座大火を象徴する概念イラスト
※イメージ画像(生成AIによる概念イラストであり、実際の現場・関係者を写したものではありません)
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大火の発生と延焼

明治5年(1872年)2月26日、新暦では1872年4月3日にあたる日の午後3時ごろ、東京の和田倉門内にあった旧会津藩邸(現在の皇居外苑)から火が出た。火元を兵部省の添屋敷とする資料もある。火は折からの強風にあおられて燃え広がり、外濠を越えて銀座へ、さらに三十間堀川を越えて築地まで達した。国立公文書館は、この火災が丸の内、銀座、築地一帯など東京の中心地を焼失させたと記している。日本で最初の本格的なホテルとされる築地ホテル館も、この大火で焼けた。
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被害

被害の数字は資料によって異なる。消防防災博物館の資料は、焼失を41か町・4,879戸・28万8千坪(約95万平方メートル)としている。日本損害保険協会の資料も焼失戸数を4,879戸とし、死者8人、罹災人口19,872人、焼けた公的建築物53か所・寺院58か所を挙げている。一方、東京都都市整備局の資料は焼失町数34町・焼失戸数2,926戸としている。死者8人は、明治初期の報道を出典とする記録とも一致する。京橋・銀座一帯は東京の中心地だったため、打撃は大きかった。中央区は、この大火で銀座地区が壊滅したと説明している。

大火が繰り返された背景

江戸が東京となった後も、東京は火事の多い都市だった。東京都公文書館によれば、明治の最初の20年間に焼失戸数千戸以上の大火が15回起き、そのうち明治12年と14年の2回は焼失が1万戸を超えた。同館は、狭い地域に木造家屋が密集し、あわせて消火能力が未発達だったという都市構造上の欠陥が、相次ぐ大火をもたらしたと説明している。東京都都市整備局の資料も、当時の東京には狭い道路と木造の建物が並ぶ古い街並みが残り、毎年のように火事が起きていたと記している。

銀座煉瓦街の建設

国立公文書館によれば、この火災をきっかけに政府は銀座を耐火構造の西洋風の街並みに改造することを計画した。東京府知事の由利公正の主導のもと、大蔵省に雇われたトーマス・ウォートルスの設計で都市計画が策定され、街区を整理して道幅を広げることと、燃えない建築で市街を建設することが柱とされた。東京都公文書館は、この計画が東京市中の家屋をすべて石造りにして不燃都市にするという政府内部の構想の一環だったとし、大通りの道幅を当時としては画期的な15間(約27メートル)とし、歩道と車道を分けて街路樹を植える計画には御雇外国人フロランの意見が採用されたと記している。事業は東京府を事業主、大蔵省を監督官庁として進められた。明治5年3月には、東京府が煉瓦の品質・寸法・施工方法などを定めた煉瓦建築に関する布令を出している。

煉瓦街のその後

煉瓦街の完成時期は資料によって書き方が異なる。消防防災博物館は明治6年6月に銀座通り一帯が煉瓦街として生まれ変わったとし、東京都公文書館は明治7年(1874年)に完成したとしている。国立公文書館は明治5年に着工し、明治10年に完成したとしており、段階的に整備が進んだことがうかがえる。煉瓦街は多くの錦絵に描かれて文明開化の象徴となったが、木造家屋に畳という生活に慣れた人々には不評で、初めは借り手がつかず空き家が目立ったという。東京の市街地をすべて煉瓦で不燃化するという構想は財政難で立ち消えとなり、不燃化の都市計画は銀座だけで終わった。銀座煉瓦街は1923年(大正12年)の関東大震災で壊滅した。

経過

  1. 1872年
    明治5年

    その他 東京府が煉瓦建築に関する布令を定める

    明治5年3月(旧暦)。

  2. 1872年4月3日
    明治5年

    事件・事故 和田倉門内から出火し銀座・築地一帯を焼失

    明治5年2月26日。午後3時ごろ出火。

  3. 1877年
    明治10年

    その他 銀座煉瓦街が完成(国立公文書館による)

    完成時期は資料により明治6年・7年・10年とする記述がある。

  4. 1923年9月1日
    大正12年

    その他 関東大震災で銀座煉瓦街が壊滅

出典・公的資料

一次資料 4件 判決文・白書・調査報告書・法令など、原典にあたれる資料を掲載しています。

  • 調査報告書
    国立公文書館
    出火日・出火場所(和田倉門内旧会津藩邸)、強風、焼失範囲、改造計画(由利公正・ウォートルス)、明治5年3月の東京府の煉瓦建築に関する布令(請求番号 太00336100)、明治5年着工・明治10年完成を確認
  • 調査報告書
    東京都公文書館
    明治初期20年間の大火の回数、都市構造上の欠陥、不燃都市構想、道幅15間・歩車道分離・フロランの意見、明治7年完成、不評と空き家、構想の立ち消え、関東大震災での壊滅を確認
  • 調査報告書
    東京都都市整備局
    焼失町数34町・焼失戸数2,926戸、東京府が事業主・大蔵省が監督官庁だったことを確認
  • 調査報告書
    消防防災博物館
    出火日・出火場所、烈風、焼失41か町・4,879戸・28万8千坪、京橋・銀座への打撃、明治6年6月の煉瓦街を確認
  • その他
    一般社団法人日本損害保険協会
    午後3時ごろの出火、焼失4,879戸・死者8人・罹災人口19,872人・公的建築物53か所・寺院58か所、不燃化が銀座のみにとどまったことを確認
  • その他
    中央区
    明治5年2月の大火で銀座地区が壊滅したことを確認
  • その他
    一般社団法人中央区観光協会
    和田倉門から出火し、築地ホテル館まで及んだことを確認
  • その他
    Yahoo!ニュース  2022年4月4日発行
    新暦の日付(1872年4月3日)、午後3時ごろの出火、外濠・三十間堀川を越えた延焼経路、築地ホテル館の焼失を確認
  • その他
    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    新暦の日付、火元を兵部省添屋敷とする記述、『新聞雑誌』第34号を典拠とする死者8人の記録を照合

さらに調べるには

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「銀座大火」事件JP、2026年10月27日閲覧。https://jiken.jp/cases/1872-ginza-great-fire/
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更新履歴

  • 2026年10月9日 初版公開

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