1955年(昭和30年)5月11日午前6時56分、濃霧に包まれた香川県高松港沖で、日本国有鉄道の宇高連絡船「紫雲丸」と貨車運航船「第三宇高丸」が衝突し、紫雲丸が沈没して乗客乗員168人が死亡・行方不明となった。犠牲者のうち108人は4つの小中学校の修学旅行の一行で、児童・生徒だけで100人を数えた。前年の洞爺丸事故に続く国鉄連絡船の大惨事として社会に衝撃を与え、高等海難審判庁は両船船長の職務上の過失を認定。濃霧による欠航の多発は、のちの瀬戸大橋建設の機運を高める一因ともなった。
濃霧の高松港沖
1955年(昭和30年)5月11日の朝、瀬戸内海は濃い霧に包まれていた。当時、日本国有鉄道の宇高航路には紫雲丸型客船3隻と第三宇高丸ほか2隻の貨物船(貨車積載専用)の計6隻が就航し、1日およそ60往復便が運航されていた。本州と四国を結ぶ旅客・物資輸送の主役であり、列車との接続待合時間は宇野で13分から21分、高松で8分から17分と、定時運航の確保が重大な使命とされていた。
紫雲丸は午前6時40分、高松港鉄道第一桟橋を上り第8便として出港した。宇野港着は午前7時45分の予定である。一方の第三宇高丸は午前6時10分に宇野鉄道第二桟橋を下り第153便として出港し、午前7時20分に高松港へ到着する予定だった。
両船とも、当時としては最新式の航海計器であるレーダー、ジャイロコンパス、無線電話を装備していた。紫雲丸は出港前に「濃霧により視程50メートル以下の見込み」との情報を入手し、第三宇高丸も出港10分後に宇野桟橋長から無線電話で濃霧警報の情報を得ていた。両船は霧中信号を吹鳴しながら、それぞれ全速力で航行していた。
謎の左転
運輸安全委員会の海難分析集は、衝突までの6分間を分単位で再現している。
衝突6分前、両船の船長はそれぞれレーダー(2海里レンジ)で相手船の映像をほぼ正船首約2海里に探知した。しかし、どちらも無線で相手の動静を確認しないまま全速力で続航した。紫雲丸は5分前に3度左転して針路307度とし、第三宇高丸は4分前に10度右転して針路140度とした。第三宇高丸の首席二等運転士は、相手船の方位が左に変化していることから左舷を対して安全に通過できると判断し、減速せずに直進している。
紫雲丸では3分前に機関用意を令し、2分前に両舷機を停止して惰力で進行した。三等運転士が無線電話で第三宇高丸を呼び出そうとしたが、自船の霧中信号の音に妨げられて連絡できなかった。そして衝突1分前、レーダーを見ていた船長が「左舵15度」を令した。この操舵が事故の核心である。
分析によれば、紫雲丸が1分前に左転せず両船がそのままの針路で航行していれば、最接近距離は80メートルから100メートルと推測される。左転の理由は、船長が事故で死亡したため完全には解明されていない。船長は衝突直前、レーダーを見ながら「あらら おかしい」とつぶやき、直後に右舷船首50度100メートルに第三宇高丸を視認して右舵一杯をとったと記録されている。
修学旅行の一行
午前6時56分、第三宇高丸は紫雲丸の右舷後部に前方から70度の角度で衝突した。第三宇高丸は紫雲丸への浸水を最小限に抑えるため、左舵一杯にとったまま全速力前進で紫雲丸の船体を押し続けた。この間におよそ半数の旅客が紫雲丸から第三宇高丸へ乗り移って避難できたが、4分から5分後に紫雲丸は横転して沈没した。
当時は本州と四国を結ぶ瀬戸内海周辺の修学旅行が盛んで、紫雲丸には4つの小中学校の修学旅行生349人が乗船していた。死亡・行方不明となった168人のうち、6割にあたる100人が修学旅行中の小中学生だった。内訳は男児19人、女児81人である。
学校別の死亡・行方不明者は、島根県松江市立川津小学校が児童21人と引率4人、広島県木江町立南小学校が児童22人と引率3人、愛媛県三芳町立庄内小学校が児童29人と引率1人、高知県高知市立南海中学校が生徒28人だった(学校名はいずれも当時のもの)。松江市立川津小学校は後に「紫雲丸遭難追悼録」を編み、救助された6年生や学校関係者の手記を残している。
海難審判と刑事責任
紫雲丸は、この事故の5年前にあたる1950年(昭和25年)3月25日にも直島水道南口付近で連絡船の鷲羽丸と衝突・沈没し、船長ほか乗組員6人が死亡していた。今回が2度目の沈没である。1950年の海難を契機に「宇高連絡船運航規程」が改正され、上り便は直島水道、下り便は葛島水道を基準航路とする分離通航が行われるようになっていたが、視界制限時における運航中止基準は定められておらず、運航の判断の大部分が各船船長にゆだねられていた。
事故を担当した神戸地方海難審判理事所は集中的な調査を行い、海難発生から1か月後の1955年6月11日に審判開始の申立てを行った。神戸地方海難審判庁は10回にわたって審理し、翌1956年1月17日に裁決を言い渡した。さらに高等海難審判庁での第二審を経て、1960年8月29日に裁決が言い渡されている。第二審の裁決は、本件衝突が紫雲丸の船長と第三宇高丸の船長の運航に関するそれぞれの職務上の過失に起因して発生したと認定した。
刑事責任については、1963年3月19日に高松高等裁判所が有罪判決を言い渡し、検察・被告双方とも上告しなかったため判決が確定した。
なお紫雲丸は沈没から2か月後の7月10日に引き揚げられ、「瀬戸丸」と船名を変えて三たび宇高航路に就航した。1966年(昭和41年)まで使用され、その後売却されて広島市内の造船所の浮き桟橋として役目を終えている。
事故が残したもの
前年の1954年9月26日には、台風による函館湾での青函連絡船洞爺丸の遭難で1,155人が死亡・行方不明となっている。2年続けての国鉄連絡船の大惨事は社会に強い衝撃を与えた。
国鉄は再発防止に向けて宇高連絡船管理部を新設し、管理・責任体制を強化した。あわせて連絡船の船体構造の改造と救命設備の改善、上下便の基準航路を完全に分離するための航路環境の整備、非常事態発生時の態勢強化、船員の教育・訓練、気象情報入手体制の確立などの安全対策を実施している。
学校教育の面でも影響が指摘される。多数の児童・生徒が犠牲になったことから水泳技能を高める必要性が世論として広がり、第22回国会の文教委員会では教員の指導能力やプール建設が議論された。犠牲者を出した学校の周辺地域では保護者がプール整備を行政に求め、高知市では1961年(昭和36年)時点で小学校27校のうち17校、中学校11校のうち5校でプール建設が進められていた。学校プールの普及と水泳授業の定着を、この事故と結びつけて語る指摘は少なくない。
宇高航路では濃霧による停船勧告が頻繁に発令され、輸送障害が続いた。これが本州四国連絡橋の建設機運を高める一因となり、3ルートのうち児島・坂出ルートが最初に建設されることにつながったとされる。宇高連絡船は瀬戸大橋の開通に合わせ、1910年(明治43年)の航路開設から78年目にあたる1988年(昭和63年)4月9日に運航を終えた。高松市の西方寺には紫雲丸遭難者慰霊碑が、女木島港内には慰霊地蔵尊が建立されている。