事件一覧
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508 件が見つかりました
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十津川大水害
1889年(明治22年)8月、停滞する秋雨前線に台風が接近し、18日から19日にかけて和歌山県から奈良県南部の山地に記録的な豪雨をもたらした。奈良県吉野地方では19日の雨量が1,000ミリを超えたと推定され、十津川郷では1,080か所で山腹が崩壊し、37か所で天然ダムが生じた。十津川郷の死者は168人、全壊・流出した家屋は426戸にのぼり、生活の基盤を失った住民はおよそ3,000人を数えた。同年10月、被災者2,691人が北海道へ移住し、新十津川村(現・新十津川町)を開いた。和歌山県でも死者1,247人の被害が出ている。深層崩壊による災害の代表例として知られる。
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ノルマントン号事件
1886年(明治19年)10月24日、イギリス貨物船ノルマントン号が紀伊半島沖で沈没し、日本人乗客25人全員が水死した事件。イギリス人船長ら乗組員はボートで脱出して助かった。神戸のイギリス領事による海難審判で船長の責任が問われなかったことに世論が反発し、日本側の告訴を受けた横浜のイギリス領事裁判所は船長に禁錮3か月の有罪判決を言い渡したが、遺族への賠償はなかった。事件は不平等条約下の領事裁判権の不公正さを浮き彫りにし、条約改正運動を後押しした。
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藤田組贋札事件
1879年(明治12年)9月15日、大阪の政商・藤田組本店に家宅捜索が入り、藤田伝三郎ら7人が贋札製造の疑いで拘引された事件。証拠不十分で釈放されたが、3年後に神奈川県の熊坂長庵が真犯人として逮捕された。薩摩閥による長州系政商追い落としの政治的思惑が背景にあったとされる。
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佐賀の乱
1874年(明治7年)2月、佐賀県の士族が、前参議の江藤新平を首領とする征韓党と、元秋田県令の島義勇を首領とする憂国党を中心に起こした反乱。2月16日に佐賀城(当時の県庁)にいた熊本鎮台の兵を攻撃し、鎮台兵は城を脱出したが、内務卿の大久保利通が全権を委ねられて率いた政府軍に敗れ、政府軍は3月1日に佐賀城に入った。陸軍の公式戦記によると、政府軍の死傷者は358人(死者184人)、反乱側の死傷者は323人とされる。江藤と島は捕らえられ、4月13日に梟首(さらし首)の刑に処された。のちに罪名は消滅し、2人には位が贈られた。
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銀座大火
明治5年2月26日(西暦1872年4月3日)午後3時ごろ、東京の和田倉門内にあった旧会津藩邸から出火し、強風にあおられて丸の内・銀座・築地一帯の東京の中心地を焼いた大火。消防防災博物館の資料では焼失は41か町・4,879戸、死者は8人とされる。この火災をきっかけに、政府は銀座を耐火構造の西洋風の街並みに改造することを計画し、東京府知事の由利公正の主導、大蔵省雇いのトーマス・ウォートルスの設計で、大通りの幅を15間(約27メートル)とする日本初の煉瓦街が建設された。東京の市街地全体を不燃化する構想は、銀座の一地域にとどまった。
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浜田地震
1872年3月14日(旧暦明治5年2月6日)、浜田県浜田町(現在の島根県浜田市)の沖を震源として発生したマグニチュード7.1程度の地震。気象庁松江地方気象台によると、島根県内で死者551人、負傷者582人、全潰4,506棟、半壊6,072棟、焼失230棟、山崩れ6,567箇所の被害が出た。本震の直前に浜田の港で海水が大きく引いたという証言が残る。被災者には、前年に定められた「窮民一時救助規則」に基づき政府から直接救助金が支払われた。国の天然記念物「石見畳ヶ浦」は、この地震で隆起した海床として指定されている。
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元禄地震
1703年(元禄16年)12月31日未明、相模トラフ沿いの房総半島南方沖を震源として発生した海溝型巨大地震。規模はマグニチュード7.9〜8.2程度とされ、房総半島から相模湾沿岸にかけて津波と家屋倒壊により甚大な被害をもたらした。1923年の関東大震災と同型の地震とされ、隆起量などの指標では元禄地震の方が規模が大きかったとされる。
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赤穂事件
元禄15年12月14日(西暦1703年1月30日)未明、江戸本所の吉良義央邸に、赤穂藩の旧筆頭家老・大石内蔵助ら赤穂浪士47人が討ち入り、前年に江戸城内で刃傷事件を起こして切腹となった主君・浅野内匠頭の仇討ちとして吉良を討ち取った。吉良方の死傷者は史料により幅があり、すみだ郷土文化資料館の解説では義央以下死者17人・負傷者28人とされる。討ち入り後、浪士46人は幕府の裁きを待ち、翌元禄16年2月4日、幕府は全員に切腹を命じ、各預け先の大名家で執行された。後世「忠臣蔵」として演劇化され、主君への忠義を体現する物語として広く語り継がれている。
出典: https://jiken.jp/cases/?page=26(2026-10-30 取得)/ 事件JP