十津川大水害 通称: 明治22年十津川大水害

発生日 1889年8月18日(明治22年) 〜 1889年8月20日
経過 発生から137年
発生場所 奈良県 吉野郡十津川郷(現・吉野郡十津川村ほか)
種別 災害
状態 終結
被害 死者 168人
1889年(明治22年)8月18日から20日にかけて、停滞する秋雨前線に台風が接近し、紀伊半島の山地に記録的な豪雨をもたらした。奈良県吉野地方では雨量が1,000ミリを超え、十津川郷では1,080か所で山が崩れ、37か所で川がせき止められて天然のダムが生じた。奈良県内の死者は168人、全壊・流出した家屋は426戸にのぼり、耕地を失って生活の基盤をなくした住民はおよそ3,000人を数えた。復旧の見通しが立たないなか、同年10月、2,691人が北海道への移住を決断する。移住先に開かれたのが新十津川村(現・新十津川町)である。深層崩壊による災害の代表例として、現在も砂防の分野で研究が続けられている。
十津川大水害を象徴する概念イラスト
※イメージ画像(生成AIによる概念イラストであり、実際の現場・関係者を写したものではありません)
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明治22年の豪雨

1889年(明治22年)8月、紀伊半島には秋雨前線が停滞していた。そこへ台風が接近し、18日から20日にかけて山地に記録的な雨をもたらした。 和歌山県田辺市の元町では日雨量901.7ミリ、時間最大169.6ミリが観測されている。奈良県の吉野地方では雨量が1,000ミリを超えたと推定され、時間雨量も130ミリに達したとみられる。近代的な観測が始まって間もない時期の数値であり、正確な把握には限界があるが、当時の記録としては桁外れの豪雨だった。 紀伊半島の山地は、堆積岩が複雑に重なった急峻な地形で、もともと大規模な崩壊が起きやすい条件を備えている。そこに数日にわたって大量の雨が浸み込んだ。
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山が崩れ、川がせき止められる

奈良県十津川郷では、1,080か所で山腹が崩壊した。崩れた土砂は谷を埋め、37か所で川の流れをせき止めた。せき止めによって生じた堰止湖は53か所にのぼる。 天然のダムは、水がたまるにつれて不安定になり、やがて決壊する。決壊すれば、たまっていた水と土砂が一気に下流を襲う。十津川ではこの二次的な災害が各所で起き、被害を拡大させた。 崩壊は表面の土だけが流れる浅いものではなく、地下深くの岩盤ごと崩れ落ちる大規模なものだった。現在「深層崩壊」と呼ばれる現象であり、十津川大水害はその代表的な事例として、いまも研究の対象となっている。

被害の状況

奈良県内の死者は168人、全壊・流出した家屋は426戸を数えた。十津川郷全体の2,403戸のうち610戸が何らかの被害を受けている。耕地226ヘクタールが埋没または流失し、生活の基盤を失った住民は約3,000人にのぼった。 同じ豪雨は和歌山県にも甚大な被害をもたらしており、県内の死者は1,247人、流出家屋3,675戸、全壊家屋1,524戸に達した。紀伊半島全体で見れば、奈良県よりも和歌山県の犠牲者のほうがはるかに多い。 十津川郷の場合、被害の性格が他と異なっていた。家屋を失っただけでなく、山あいのわずかな耕地が土砂に埋まり、生きていくための土地そのものが消えたのである。復旧して元の暮らしに戻るという選択肢が、事実上存在しなかった。

北海道への集団移住

災害から2か月後の1889年10月、十津川郷の住民2,691人が北海道への移住を決断した。当時北海道では屯田兵制度による開拓が進められており、被災者の受け入れ先として石狩川流域の土地が用意された。 移住者は船と徒歩で北海道へ渡り、樺戸郡の原野に入植した。開かれた村は、故郷の名を残して新十津川村と名づけられた。現在の新十津川町である。 移住者を待っていたのは、原生林と厳しい冬だった。開拓の初期は食糧にも事欠く状況で、多くの困難を経て村が形をなしていった。新十津川町と十津川村は現在も「母村」「分村」の関係として交流を続けており、災害を機に生まれた二つの自治体のつながりは130年以上にわたって保たれている。

深層崩壊という現象

十津川大水害は、日本の治山治水事業が本格化する契機のひとつとなった。山地の荒廃が下流に災いをもたらすという認識が広まり、森林の保全と砂防工事の必要性が語られるようになる。 現代の防災の観点からこの災害が注目されるのは、深層崩壊の事例としてである。表層のみが滑る崩壊と違い、深層崩壊は地下深くの岩盤ごと動くため、規模が桁違いに大きく、発生の予測も難しい。国土交通省の砂防部門は、過去の深層崩壊の事例を収集して発生しやすい地域を推定する研究を進めており、十津川の記録はその基礎資料となっている。 2011年(平成23年)の台風12号による紀伊半島大水害では、同じ紀伊半島の山地で深層崩壊と河道閉塞が相次いだ。122年の間隔をおいて、ほぼ同じ場所で同じ種類の災害が繰り返されたことになる。過去の災害の記録が現在の防災にとって持つ意味を、この対比は端的に示している。

経過

  1. 1889年8月18日
    明治22年

    事件・事故 紀伊半島の山地で記録的豪雨となり十津川郷で大規模な崩壊が発生

    1,080か所で山腹が崩壊し、37か所で河道が閉塞した。奈良県内の死者は168人。

  2. 1889年10月
    明治22年

    その他 十津川郷の住民2,691人が北海道への移住を決断

    移住先に開かれた村が新十津川村(現・新十津川町)である。

出典・公的資料

一次資料 2件 判決文・白書・調査報告書・法令など、原典にあたれる資料を掲載しています。

  • 調査報告書
    国土交通省近畿地方整備局 紀伊山系砂防事務所
    紀伊山地で繰り返されてきた深層崩壊の事例として、明治22年の十津川災害が位置づけられていることを確認。
  • 調査報告書
    国土交通省
    明治22年の水害における降雨と流域の被害についての記述を確認。
  • その他
    北海道新十津川町
    十津川郷からの移住によって開かれた町であり、現在も十津川村と交流を続けていることを確認。
  • その他
    ウィキペディア日本語版
    崩壊箇所1,080か所・河道閉塞37か所、奈良県内の死者168人、移住者2,691人という数値を確認。

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「十津川大水害」事件JP、2026年9月8日閲覧。https://jiken.jp/cases/1889-totsukawa-flood/

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更新履歴

  • 2026年8月24日 初版公開

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