赤穂事件 通称: 忠臣蔵
| 発生日 | 1703年1月30日() |
|---|---|
| 経過 | 発生から323年7か月 1703年3月20日の確定から323年5か月 |
| 発生場所 | 東京都 本所松坂町(吉良邸、現・墨田区両国三丁目) |
| 種別 | 殺人 |
| 状態 | 終結 |
1703年(元禄15年)12月14日未明(西暦1月30日)、江戸本所の吉良義央邸に、赤穂藩の旧筆頭家老・大石内蔵助ら赤穂浪士47人が討ち入り、前年に江戸城内で刃傷事件を起こして切腹となった主君・浅野内匠頭の仇討ちとして吉良を討ち取った。吉良方の死傷者は史料により幅があり、死者15〜18人、負傷者19〜23人とされる。討ち入り後、浪士46人は自首し、翌年2月4日、幕府は全員に切腹を命じ、各預け先の大名家で執行された。後世「忠臣蔵」として演劇化され、主君への忠義を体現する物語として広く語り継がれている。
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発端(松之大廊下の刃傷事件)
1701年(元禄14年)3月14日(西暦4月21日)、江戸城内の松之大廊下で、赤穂藩主・浅野内匠頭が、勅使饗応役の指南を務めていた高家旗本・吉良義央(上野介)に斬りつける刃傷事件が起きた。浅野は即日切腹を命じられ、赤穂藩は改易(お家取り潰し)となったが、吉良には何のお咎めもなかった。この片手落ちの処分に対し、赤穂藩の旧家臣の間には不満がくすぶった。
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討ち入りの経過
1703年(元禄15年)12月14日(西暦1703年1月30日)未明、旧筆頭家老の大石内蔵助を筆頭とする赤穂浪士47人は、表門・裏門の二手に分かれて本所松坂町の吉良邸に討ち入った。合戦は寅の上刻(午前4時頃)から始まり、およそ1〜2時間の戦闘の末、浪士側は炭小屋に隠れていた吉良を発見して討ち取った。吉良方の死傷者数は史料によって幅があり、死者15〜18人、負傷者19〜23人とされる一方、赤穂浪士側に死者はなく、負傷者2人にとどまった。
泉岳寺への引き揚げと自首
本懐を遂げた浪士たちは吉良の首を掲げて隊列を組み、主君・浅野内匠頭の墓所がある泉岳寺まで市中を練り歩いた。墓前で仇討ちの報告をしたのち、浪士らは大目付宅などへ出頭して自首した。討ち入りに加わった47人のうち1人は途中で行方をくらまし、残る46人が幕府の裁きを待つこととなった。
幕府の裁定と切腹
浪士たちの処遇をめぐって幕閣内でも意見が分かれたが、最終的に幕府は「主君の仇を討った忠義」と「私的な武力行使による法の秩序侵犯」の両面を踏まえ、46人全員に切腹を命じる裁定を下した。裁定は1703年(元禄16年)2月4日(西暦3月20日)に伝えられ、浪士らは細川家・松平家・毛利家・水野家など預け先の4大名家の屋敷で、同日中に切腹した。
後世への影響
赤穂事件は、討ち入りからほどなく人形浄瑠璃・歌舞伎の題材となり、「忠臣蔵」の名で広く親しまれる物語へと発展した。史実と創作が入り混じりながら、主君への忠義や武士の一分を貫く物語として江戸時代から現代に至るまで繰り返し上演・映像化されており、日本の武士道観・忠義観を象徴する事件として、歴史的にも文化的にも大きな影響を残している。
経過
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1701年4月21日
その他 松之大廊下刃傷事件が起こり、浅野内匠頭が即日切腹
赤穂藩は改易となった。赤穂事件の発端となった。
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1703年1月30日
事件・事故 赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入り、吉良義央を討ち取る
吉良方に死者15〜18人・負傷者19〜23人。赤穂浪士側に死者なし、負傷者2人。
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1703年3月20日
判決 幕府が赤穂浪士46人に切腹を命じ、同日執行(処分確定)
細川家・松平家・毛利家・水野家の4大名家お預けの屋敷で切腹した。
出典・公的資料
- その他
- その他
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「赤穂事件」事件JP、2026年9月8日閲覧。https://jiken.jp/cases/1703-ako-incident/
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更新履歴
- 2026年9月1日 初版公開
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