鶴見事故

発生日 1963年11月9日(昭和38年)
経過 発生から62年10か月
発生場所 神奈川県 横浜市鶴見区生麦町付近(東海道本線 鶴見〜横浜間)
種別 事故
状態 終結
被害 死者 161人  負傷者 119人
1963年(昭和38年)11月9日21時51分ごろ、横浜市鶴見区の国鉄東海道本線鶴見〜横浜間で、貨物線を走行中の下り貨物列車の後部3両が脱線し、隣の旅客線に進入してきた上り横須賀線電車が衝突、その車両がさらに下り横須賀線電車に突っ込んだ列車多重衝突事故。死者161人、負傷者119人(運輸大臣の国会報告による)。脱線の原因は特定の過失ではなく、走行状態・線路条件・車両の特性など複数の悪条件が重なった「競合脱線」と推定され、刑事責任は問われなかった。同じ日に福岡県の三井三池炭鉱でも炭じん爆発事故が起きており、この日は「魔の土曜日」とも呼ばれる。事故を受けて国鉄は北海道に狩勝脱線実験線を設けて実車による脱線試験を重ね、脱線防止レールの増設や貨車車輪の形状改良につなげた。
鶴見事故を象徴する概念イラスト
※イメージ画像(生成AIによる概念イラストであり、実際の現場・関係者を写したものではありません)
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事故の経過

1963年(昭和38年)11月9日(土曜日)21時51分ごろ、東海道本線の鶴見〜横浜間、京浜東北線が東海道線を立体交差で越える付近で事故は起きた。この区間は東海道線の旅客線(上下)と貨物線(上下)が並ぶ複々線で、新鶴見方面から来た貨物線が旅客線に接近して並走する地点にあたる。 新鶴見を出た下り貨物列車(2365列車、45両編成)が貨物線を走行中、後部から非常ブレーキがかかって停止した。最後部の3両(ワラ501、ポム92、ワフ28088)が脱線しており、このうちワラ501は約16メートルにわたって車輪がレール上に乗り上がった(せり上がり)のち脱線し、枕木の上を約50メートル走って架線柱に衝突、編成から外れて隣の上り旅客線を支障した。 そこへ上りの横須賀線電車(2000S)が進入し、先頭車がワラ501に衝突した。衝突した先頭車は、反対側の下り旅客線上に停止していた下り横須賀線電車(2113S)の5両目の上にのしかかり、2両目と3両目は貨物線側に脱線した。2113Sの運転士は前方に火花を認めたことと、架線柱への衝突で架線が揺れて停電したことから非常ブレーキをかけており、ワラ501の脱線から約1分〜1分30秒後に停止していたと推定されている。貨物列車の車掌は発炎筒をたいていたが、2000Sの運転士が殉職したため、発炎筒を認めたかどうかは確認できなかった。
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被害の状況

1963年12月11日に運輸大臣が衆参両院の本会議で行った報告では、死者161人、負傷者119人とされた。翌12日の衆議院運輸委員会で国鉄副総裁は、死者の内訳を乗客160人と上り電車(2000S)の電車運転士1人と説明し、なお52人が横浜・鶴見の病院に入院中であると報告している。犠牲は、上り電車の先頭車がのしかかった下り電車の5両目・6両目の乗客に集中した。 なお、死者を162人、負傷者を120人とする資料もある(国会での議員発言や後年の文献)。本記事では、事故から約1か月後の政府・国鉄の公式報告の数値を採用した。 国鉄は遺族に香典10万円と葬祭料20万円を渡し、負傷者には程度に応じた見舞金を支払った。1963年11月22日には鶴見の總持寺で合同慰霊法要が営まれた。遺族への補償交渉は家族構成や収入の調査を経て個別に進められ、同年12月中旬の時点で約2割の遺族と話し合いがついたと報告されている。

原因の究明 ―「競合脱線」

国鉄は事故直後に技師長を中心とする「鶴見事故技術調査委員会」を設け、現地や同様の曲線区間で走行試験を行ったが、1963年12月の時点でもワラ501が脱線した理由は不明とされていた。同委員会は1964年1月に中間的な結論として、列車の走行状態、線路条件、隣接車両の動揺、脱線車特有の悪条件が「競合」して起きたものと推定した。いわゆる「競合脱線」である。 運輸大臣は事故2日後の1963年11月11日、日本国有鉄道監査委員会に特別監査を命じた。監査委員会は大学教授3人を技術顧問に迎えて28回の会議を重ね、1964年1月30日に「東海道本線鶴見・横浜間における運転事故に関する特別監査報告書」をまとめた。報告書は、競合による脱線という推定を「時間的制約もあり一応やむを得ない」と認めつつ、脱線に導く素因やその関係度合いが十分に解明されておらず「事故の原因を最終的に解明したものであるとはいいがたい」として、国鉄に究明の継続を求めた。 さらに報告書は事故の背景として、過去の類似事故の究明が不徹底だったこと、線路と車両の総合的な管理が不十分だったこと、輸送需要の増加に線路増設が追いつかず列車ダイヤが稠密化して安全確保上の大きな問題を抱えていることの3点を指摘した。

刑事責任

事故後、検察は貨物列車の乗務員や操車場の職員など多数の国鉄職員を取り調べた。1964年3月の参議院予算委員会公聴会では、公述人から「数十人も検察に呼ばれている」として、現場の職員ばかりが追及され経営側の責任が問われないことへの批判が出ている。 しかし最終的に、検察は過失を認めることはできず不可抗力であるとして、嫌疑なしで不起訴とした。1967年6月29日の衆議院法務委員会で法務省刑事局長は、運転士の信号見落としが原因で起訴に至った三河島事故(1962年)と対比して、鶴見事故では「どう考えても過失は認められない」と判断したと答弁している。死者が多い事故であっても、業務上過失致死罪は注意義務違反が認められなければ成立しないことを示した事例といえる。

狩勝脱線実験線と安全対策への影響

「競合脱線」という抽象的な結論のままでは再発防止策を立てられないため、国鉄は脱線のメカニズムそのものの解明に取り組んだ。1967年6月、根室本線の新線切り替えで不要になった狩勝峠の旧線(新得〜新内)を利用して「狩勝脱線実験線」を設け、実物の2軸貨車を使い、積載状態、空車と積車の編成の組み方、速度、加減速、線路状態などの条件を変えながら、実際に車両を脱線させる試験を繰り返した。同年9月の衆議院運輸委員会で国鉄副総裁は、こうした脱線は「数百万回に一回ぐらい」の頻度で起こるもので、世界的にも原因の特定が難しいと説明している。 実験線は1979年8月に廃止されるまで12年間使われ、その成果として急曲線部での脱線防止レールの増設や、貨車車輪の踏面形状の改良(N踏面化)などが実施された。これらは後に旅客線の脱線防止にも生かされている。 また、鶴見事故の直後には国鉄で列車の衝突・接触事故が相次ぎ、国鉄は保安対策の重点を列車自動停止装置(ATS)、踏切対策、貨車のタイヤ割損による途中脱線の防止の3点に絞って予算を集中させた。国鉄の保安対策費は1962年度の約60億円から、1963年度約130億円、1964年度約214億円へと大きく増えている。

「魔の土曜日」と鉄道史上の位置づけ

事故と同じ1963年11月9日には、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱三川鉱で炭じん爆発事故が起き、458人が死亡している。戦後最悪級の鉄道事故と炭鉱事故が同じ日に重なったことから、この日は「魔の土曜日」「血塗られた土曜日」とも呼ばれた。 鶴見事故は、前年5月の三河島事故とともに、脱線した貨物列車の車両が隣の線路の旅客電車と衝突して被害が拡大した事故である。三河島事故の原因が運転士の信号見落としという人為的な誤りだったのに対し、鶴見事故は通常の運行中に予期せぬ場所で起きた脱線であり、当時の技術水準では事前に想定しにくい複合的な要因によるものとされた点で性格が異なる。2000年の営団日比谷線中目黒駅構内の脱線衝突事故で「乗り上がり脱線」が問題になった際にも、鶴見事故の競合脱線と対比して論じられている。

経過

  1. 1963年11月9日
    昭和38年

    事件・事故 事故発生

    21時51分ごろ、東海道本線鶴見〜横浜間で下り貨物列車の後部3両が脱線し、上り横須賀線電車が衝突、さらに下り横須賀線電車に突っ込んだ。死者161人、負傷者119人。

  2. 1963年11月11日
    昭和38年

    捜査 運輸大臣が国鉄監査委員会に特別監査を命令

    事故原因の究明について、運輸大臣が日本国有鉄道監査委員会に特別監査を命じた。監査委員会は11月14日から28回の会議を開いた。

  3. 1963年11月22日
    昭和38年

    その他 總持寺で合同慰霊法要

    国鉄が横浜市鶴見区の總持寺で犠牲者の合同慰霊法要を営んだ。

  4. 1964年1月
    昭和39年

    捜査 国鉄技術調査委員会が「競合脱線」との中間結論

    鶴見事故技術調査委員会が、列車の走行状態・線路条件・隣接車両の動揺・脱線車特有の悪条件が競合して起きたものとする中間的な推定をまとめた。

  5. 1964年1月30日
    昭和39年

    捜査 特別監査報告書を運輸大臣に提出

    国鉄監査委員会が「東海道本線鶴見・横浜間における運転事故に関する特別監査報告書」を提出。競合脱線の推定は一応やむを得ないとしつつ、原因の最終的な解明ではないとして究明の継続を求めた。

  6. 1967年6月
    昭和42年

    その他 狩勝脱線実験線を開設

    根室本線狩勝峠の旧線(新得〜新内)を利用し、実物の2軸貨車を脱線させて原因を解明する実験線を設けた。1979年8月の廃止まで12年間使用された。

  7. 1967年6月29日
    昭和42年

    その他 法務省刑事局長が「嫌疑なしで不起訴」と答弁

    衆議院法務委員会で、鶴見事故では過失は認められず不可抗力として検察官が嫌疑なしで不起訴にしたと説明された(不起訴処分の日付は会議録からは確認できない)。

出典・公的資料

一次資料 8件 判決文・白書・調査報告書・法令など、原典にあたれる資料を掲載しています。

  • 調査報告書
    国立国会図書館 国会会議録検索システム  1963年12月11日発行
    運輸大臣の報告で、発生時刻(21時51分)、発生区間(東海道本線鶴見〜横浜間)、事故の態様(下り貨物列車後部3両の脱線→上り横須賀線電車の衝突→下り横須賀線電車への衝突)、死者161人・負傷者119人、国鉄が鶴見事故技術調査委員会を設けたことを確認
  • 調査報告書
    国立国会図書館 国会会議録検索システム  1963年12月12日発行
    列車番号(2365列車・2000S・2113S)、貨物列車の編成両数(45両)、脱線車両(ワラ501・ポム92・ワフ28088)、乗り上がり約16メートル・枕木上約50メートル走行・架線柱への衝突、2113Sが停止していた経緯、死者の内訳(乗客160人+電車運転士1人)、入院者52人、香典・葬祭料、11月22日の總持寺での合同慰霊法要、補償交渉の状況を確認
  • 調査報告書
    国立国会図書館 国会会議録検索システム  1964年1月30日発行
    運輸省鉄道監督局長による特別監査報告書の要旨報告。11月11日の特別監査命令、11月14日から28回の委員会開催、技術顧問3人、競合脱線の推定に対する評価、事故の背景として指摘された3点(類似事故の究明不徹底・線路と車両の総合的管理の不十分・ダイヤの稠密化)を確認
  • 調査報告書
    国立国会図書館 国会会議録検索システム  1967年6月29日発行
    鶴見事故では過失が認められず不可抗力として検察官が嫌疑なしで不起訴としたこと、三河島事故は起訴され一審で禁錮3年の判決が出たことを確認
  • 調査報告書
    国立国会図書館 国会会議録検索システム  1967年9月11日発行
    競合脱線は数百万回に1回程度の頻度で起こり原因の特定が難しいこと、狩勝峠の旧線を脱線試験線区として実車を脱線させる試験を始めたことを確認
  • 調査報告書
    国立国会図書館 国会会議録検索システム  1964年12月2日発行
    鶴見事故直後の事故続発を受け、国鉄が保安対策の重点をATS・踏切・貨車タイヤの緊急取替えの3点に絞ったことを確認
  • 調査報告書
    国立国会図書館 国会会議録検索システム  1966年2月28日発行
    国鉄の保安対策費(1961年度約54億円、1962年度約60億円、1963年度約130億円、1964年度約214億円)を確認
  • 調査報告書
    安全工学会(J-STAGE)
    貨物列車がEF15形電気機関車牽引の45両編成で後部3両目の貨車から脱線したこと、競合脱線の判定とその問題点、狩勝脱線実験線(1967年6月設置・1979年8月廃止の12年間)、成果としての脱線防止レール増設・車輪のN踏面化、三河島事故・日比谷線事故との比較を確認。死者を162人と記載しているが、本記事では政府・国鉄の公式報告の161人を採用
  • その他
    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    事故の全体像の確認の起点として参照。同日の三井三池炭鉱事故と合わせて「魔の土曜日」「血塗られた土曜日」と呼ばれたことを確認。負傷者数は120人と記載されている

関連する法律用語

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レポート・記事などで本ページを参照する際は、以下の表記をご利用ください。

「鶴見事故」事件JP、2026年10月3日閲覧。https://jiken.jp/cases/1963-tsurumi-train-collision/

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更新履歴

  • 2026年10月3日 初版公開

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