三井三池炭鉱三川鉱炭じん爆発事故

発生日 1963年11月9日(昭和38年)
経過 発生から62年8か月
発生場所 福岡県 大牟田市(三井三池炭鉱三川坑)
種別 事故
状態 終結
被害 死者 458人  負傷者 839人
1963年(昭和38年)11月9日、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱三川坑で、坑内を暴走した石炭運搬用トロッコから出火し炭じんが爆発した。爆発そのものによる犠牲に加え、坑内に高濃度の一酸化炭素が長時間滞留したことで多数の坑員が中毒し、死者458人・一酸化炭素中毒患者839人にのぼる戦後最悪の炭鉱事故となった。
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事故の経過

三井三池炭鉱では1959年から1960年にかけて、大量人員整理をめぐり282日間に及ぶ戦後最大規模の労働争議「三池争議」が発生し、労使関係は長期にわたり緊張した状態が続いていた。この争議の影響で、坑内の炭じん処理を担う保安要員が大幅に削減されるなど、安全管理体制が手薄になっていたとされる。こうした中、1963年11月9日15時12分ごろ、大牟田市の三井三池炭鉱三川坑で、坑口から約1,600メートル付近の斜坑を走行していた石炭運搬用トロッコの連結が外れ、火花を出しながら脱線・暴走した。これにより坑内に大量の炭じんが舞い上がり、炭じんに引火して爆発が発生した。当時坑内には約1,400人の労働者が従事していた。
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被害の拡大とCO中毒

爆発そのものによる犠牲に加え、爆発により発生した一酸化炭素が坑内に充満し、濃度約6%という高濃度のまま5〜6時間にわたって滞留したとみられ、救助の遅れが被害をさらに拡大させた。最終的に死者458人、一酸化炭素中毒患者839人を出し、戦後の労働災害・炭鉱事故として最悪の被害規模となった。

補償問題と長期的な影響

一酸化炭素中毒による後遺症は記憶障害や人格変化など精神症状が中心であったため、労災補償上の評価が低く、被災者の多くは十分な補償を受けられなかった。周囲から偏見を受けた患者も少なくなく、一部の被災者は企業の責任を問う民事訴訟を長期にわたり続けた。事故から50年が経過した2013年時点でも、なお80人以上が後遺症による闘病を続けていたと報じられている。大牟田市の延命公園には犠牲者を追悼する「三川鉱大災害殉職者慰霊碑」が建立されている。なお、同じ1963年11月9日には神奈川県横浜市鶴見区でも列車の三重衝突事故が発生して161人が死亡しており、大規模な事故が同日に相次いだことから、この日は後に「魔の土曜日」と呼ばれるようになった。この事故は、坑内労働における粉じん爆発対策と保安管理体制の重要性を示す教訓として、後の鉱山保安行政にも影響を与えた。

経過

  1. 1963年11月9日
    昭和38年

    事件・事故 三川坑で炭じん爆発が発生

    死者458人、一酸化炭素中毒患者839人の被害が生じた。

  2. 1963年
    昭和38年

    その他 被災者による損害賠償請求訴訟が提起

    一酸化炭素中毒後遺症への補償をめぐり、企業の責任を問う民事訴訟が長期にわたり争われた。

  3. 2013年11月9日
    平成25年

    その他 事故から50年、なお80人超が後遺症で療養中と報道

出典・公的資料

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レポート・記事などで本ページを参照する際は、以下の表記をご利用ください。

「三井三池炭鉱三川鉱炭じん爆発事故」事件データベース jiken.jp、2026年7月29日閲覧。https://jiken.jp/cases/1963-miike-mine-explosion/

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更新履歴

  • 2026年7月16日 初版公開

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