豊州炭鉱水没事故
| 発生日 | 1960年9月20日(昭和35年) 1960年(昭和35年)の事件 / 9月20日に起きた事件 |
|---|---|
| 経過 | 発生から66年1か月 |
| 発生場所 | 福岡県 田川郡川崎町 |
| 種別 | 事故 |
| 状態 | 終結 |
| 被害 | 死者 67人 |
特集
炭鉱事故・産業災害
- 炭鉱事故・産業災害集中豪雨で増水した川の川底が陥没し、坑内に大量の水が流れ込んで67人が死亡した。二次災害のおそれから多くの遺体は収容されないまま坑内に取り残された。
1960年(昭和35年)9月20日未明、福岡県田川郡川崎町の上尊鉱業豊州炭鉱で、集中豪雨により増水した中元寺川の川底が陥没し、坑内に川の水が大量に流れ込んで水没した事故。坑内で作業していた約220人のうち67人が逃げ遅れて死亡し、二次災害のおそれから多くの遺体は収容されないまま坑内に取り残された。
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事故の経過
1960年(昭和35年)9月20日午前0時過ぎ、福岡県田川郡川崎町の上尊鉱業豊州炭鉱で、坑口から約150メートル付近の坑道に水が噴き出しているのを坑夫が発見した。前日からの豪雨で増水していた中元寺川の川底が陥没し、廃坑となっていた古洞を通じて川の水が坑内に大量に流れ込んだことが原因だった。事故発生当時、坑内には約220人の作業員が入坑しており、坑口から2000メートル以上離れた「芳の谷」「大焼」の両区域では、大規模な落盤により連絡が断たれた。同日午前3時には水位が坑口から15メートルの位置まで上昇し、67人が濁流にのまれるなどして逃げ遅れ死亡した。
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遺体収容問題とその後
消防団や自衛隊による防水作業が続けられ、9月21日昼過ぎには中元寺川の川底の陥没箇所を塞ぐことに成功したが、坑内は大規模な落盤により閉塞されていた。災害直後から福岡鉱山保安監督部が現地で応急措置にあたり、翌日には通商産業省の鉱山保安局長らが派遣されて、古洞の調査や防水ダムの構築、坑道の掘り直し(取明け)を含む救出作業計画が立てられた。政府の答弁書によれば、同年12月12日の時点でも3本の坑道で取明け作業が続き、坑口から約490メートルの位置まで進んでいた。しかしその後、二次災害の危険性などから収容作業は断念されたとされ、67人の遺体は収容されないまま坑内に取り残された。遺族に対する労災保険の遺族補償費と葬祭料は、1人平均63万円、総額約4,000万円と見込まれていた。事故は国会でも取り上げられ、会社側・政府の対応や補償のあり方が質問主意書を通じて議論された。犠牲者は現在も地底に眠ったままで、山口県の長生炭鉱水没事故(1942年)の遺骨収容運動が近年注目される中、同種の未解決問題として比較・言及されることがある。
経過
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1960年9月20日
昭和35年事件・事故 坑内に川の水が流入、67人が水没死
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1960年9月21日
昭和35年その他 中元寺川の川底の陥没箇所を閉塞
その後も坑道の取明け作業が続けられ、1960年12月12日時点で坑口から約490メートルまで進んだが、遺体の収容には至らなかった。
出典・公的資料
一次資料 3件 判決文・白書・調査報告書・法令など、原典にあたれる資料を掲載しています。
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調査報告書
内閣(衆議院 質問答弁情報)鉱山保安当局による救出作業計画の指導、1960年12月12日時点の取明け作業の進捗(坑口から約490m)、労災遺族補償の見込み額を確認
- 法令
- 法令
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「豊州炭鉱水没事故」事件JP、2026年10月30日閲覧。https://jiken.jp/cases/1960-hoshu-coal-mine-flooding/
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更新履歴
- 2026年9月28日 政府答弁書に基づき、遺体収容作業の経過(直後に断念→12月時点でも取明け作業が継続)を訂正し、遺族補償の見込み額を補記、答弁書を一次資料として追加
- 2026年7月23日 初版公開
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