金閣寺放火事件
結末 1950年12月、京都地裁で放火した徒弟僧の男に懲役7年の判決が確定
| 発生日 | 1950年7月2日(昭和25年) 1950年(昭和25年)の事件 / 7月2日に起きた事件 |
|---|---|
| 経過 | 発生から76年3か月 1950年12月28日の確定から75年10か月 |
| 発生場所 | 京都府 京都市上京区(現・北区)(鹿苑寺) |
| 種別 | 放火 |
| 状態 | 判決確定 |
1950年(昭和25年)7月2日未明、京都市の鹿苑寺(金閣寺)で、同寺の徒弟僧(当時21歳)が国宝の舎利殿(金閣)に放火し全焼させた事件。人的被害はなかったが、足利義満坐像など国宝の寺宝も焼失した。三島由紀夫の小説「金閣寺」のモチーフになったことでも知られる。
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事件の経過
1950年7月2日午前3時ごろ、京都市上京区(現・北区)の鹿苑寺(通称・金閣寺)で、同寺の徒弟僧(当時21歳)が、国宝の舎利殿(金閣)に放火した。舎利殿は全焼し、あわせて安置されていた足利義満坐像(当時国宝)や観音菩薩像、阿弥陀如来像などの寺宝も焼失した。幸い人的被害はなかった。放火した僧は寺の裏手の左大文字山に逃げ、睡眠薬(カルモチン)を大量に服用したうえ短刀で胸を突いて自殺を図ったが、未遂のまま中腹で発見され、身柄を確保された。
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捜査と裁判
取り調べに対し、僧は「金閣と心中する覚悟」だったと述べ、のちには「美に対する反逆」と説明した。背景には、幼少期からの重度の吃音症や病弱な体質、母親からの過度な期待、寺の後継をめぐる複雑な事情などが絡んでいたとされる。捜査・裁判の過程で精神鑑定が実施されたが、完全な責任能力ありと判断され、1950年12月28日、京都地方裁判所は懲役7年の判決を言い渡した。控訴はなく判決は確定した。服役中に結核と精神疾患が進行し、1955年10月30日に刑期を終えて釈放されるとそのまま措置入院となったが、1956年3月7日、結核により26歳で死去した。国宝建造物が僧侶の手によって焼かれたという事件の性質は当時の社会に大きな衝撃を与え、連日にわたり新聞・ラジオで大きく報じられた。
その後の影響
前年の1949年1月に奈良・法隆寺金堂で火災が発生し国宝壁画が焼損したことを受け、1950年5月に文化財保護法が公布された。その8月の施行を目前に控えていた時期に、今度は金閣という別の国宝建造物が焼失する事態となり、文化財の防火対策の遅れを改めて社会に痛感させることになった。事件を題材に、三島由紀夫は1956年に小説「金閣寺」を、水上勉は1979年に「金閣炎上」をそれぞれ発表し、事件は文学作品を通じても広く知られるところとなった。焼失した舎利殿は1952年に再建工事が始まり、1955年に創建当時の姿で竣工した。1986年から1987年にかけては金箔を全面的に張り替える「昭和大修復」が行われ、現在に伝わる金色の姿となった。
経過
-
1950年7月2日
昭和25年事件・事故 国宝・舎利殿(金閣)に放火し全焼させる
足利義満坐像など国宝の寺宝も焼失。人的被害はなし。
-
1950年12月28日
昭和25年判決 京都地方裁判所の懲役7年判決が確定
京都地方裁判所
-
1956年3月7日
昭和31年その他 釈放後に入院していた元徒弟僧が結核で死去
1955年10月30日に刑期を終えて釈放され、そのまま措置入院となっていた。
出典・公的資料
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関連する法律用語
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「金閣寺放火事件」事件JP、2026年10月31日閲覧。https://jiken.jp/cases/1950-kinkakuji-arson/
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更新履歴
- 2026年9月28日 文化財保護法の制定時期、犯人の死去の経緯(服役中→釈放後の入院中)、供述の動機の記述を訂正し、当時の所在区と自殺未遂の状況を補記
- 2026年7月19日 初版公開
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