青森県新和村一家7人殺害事件
| 発生日 | 1953年12月12日(昭和28年) |
|---|---|
| 経過 | 発生から72年8か月 1958年4月10日の確定から68年4か月 |
| 発生場所 | 青森県 中津軽郡新和村小友(現・弘前市大字小友) |
| 種別 | 殺人 |
| 状態 | 終結 |
| 被害 | 死者 8人 負傷者 0人 |
1953年(昭和28年)12月12日未明、青森県中津軽郡新和村小友(現・弘前市)のりんご農家で、実家を追われ困窮していた三男の男性(当時24歳)が猟銃で父・長兄夫婦・祖母・伯母・甥姪ら7人を射殺した事件。直後に発生した火災で幼い姪1人も焼死し、死者は計8人にのぼった。刑事裁判では犯行当時の心神喪失が認定され、殺人罪は無罪が確定した。
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加害者の境遇と犯行に至る背景
被害者宅の三男である男性(当時24歳、桶職人)は、当時の青森県津軽地方の集落に残っていた「家の財産はすべて長男が継ぐ」という封建的な慣習のもとで育った。事件前年の1952年7月、父親と長兄から布団・鍋・米一斗を渡されただけで実家を追い出され、以後は極度の貧困生活を強いられていた。母の離婚訴訟をめぐる家族間の対立も重なり、男性は家族への疎外感と困窮を深めていたとされる。
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事件の経緯
1953年12月12日未明、味噌を盗もうと実家の物置小屋に侵入した男性は、小屋の中にあった猟銃と実弾を見つけた。その瞬間、「見つかれば自分が家族に殺される」という被害妄想的な考えにとらわれ、隣接する住宅に押し入って猟銃を発射した。父親(当時57歳)、長兄(同35歳)とその妻(同33歳)、祖母(同80歳)、当夜たまたま訪れていた伯母(同61歳)、幼い甥(同7歳)と姪(同5歳、誕生日当日だった)の計7人が、布団の中で至近距離から撃たれて死亡した。犯行に要した時間はわずか1分程度だったとみられている。使用人の男性(当時23歳)は窓から飛び降りて難を逃れた。
火災の発生とその後
発砲から約30分後、住宅で火災が発生し、逃げ遅れた3歳の姪1人が焼死した。出火原因は特定できず、銃撃の際に生じた火花が布団に引火した可能性が指摘されたものの、放火の立件は最終的に見送られた。この結果、事件全体の死者は射殺された7人に焼死した1人を加えた計8人となり、地元では「8人殺し」とも呼ばれた。地元紙は本件を「青森県史上最も凶悪な殺人事件」と報じた。
裁判の経過(精神鑑定と心神喪失の認定)
捜査・公判を通じて精神鑑定は4回実施された。最初の鑑定は男性を心神喪失と判定し、これを不服とした検察は東京都立松沢病院の医師による再鑑定を申請したが、この鑑定も心神喪失ないし心神耗弱を認める結果となった。控訴審ではさらに第3の鑑定が行われ、1957年11月の提出時にも同様に心神喪失が認定された。裁判所は、男性の犯行時の記憶が極めて断片的であること、取調べで誘導されやすい立場にありながらも「本心を失うほど酔っていたわけではない」と一貫して供述したこと、被害妄想的な思考と矛盾しない供述内容であったこと、計画的犯行をうかがわせる証拠が乏しく実際に物置には味噌の甕があったことなど、複数の事情を総合して心神喪失を認定した。
無罪確定とその後の加害者
1956年4月5日、青森地方裁判所弘前支部は「心神喪失の疑いが強く、これを否定する証明がない場合は疑わしきは罰せずの原則により心神喪失を認めるべきである」として、殺人・尊属殺人については無罪とし、物置小屋への住居侵入罪についてのみ懲役6か月・執行猶予2年を言い渡した。検察は控訴したが、1958年3月26日、仙台高等裁判所秋田支部は控訴を棄却して一審判決を支持し、検察が上告しなかったため同年4月10日付で無罪が確定した。釈放後、男性は次兄とともに帰郷してりんご栽培で生計を立て、32歳で結婚して3人の子をもうけ、後年は地区の自治会長や農業協同組合の役員も務めた。2001年12月、交通事故により72歳で死亡した。
事件の社会的背景と後世への影響
事件が起きた集落では、本件の後もおよそ2年おきに一家の内部で死者を伴う事件が続いた。1954年10月には三男が次男に首を絞められて死亡(正当防衛と認定)、1955年10月には次男が父親に殺害され(懲役4年)、1956年3月には長男が弟に殺害される(傷害致死で在宅起訴)事件が相次いだ。これらは同じ集落内の別々の家族に生じた事件だが、いずれも家族間の対立が背景にあったとされる。一連の出来事についての漠然とした記憶が地域でタブー化し、後年インターネット上で広まった「精神異常者が住民を皆殺しにした村」という都市伝説「杉沢村伝説」のルーツの一つとされている。青森県は当時、長野県・秋田県と並んで尊属殺人事件の発生が多い地域とされ、家督を長男が独占する戦後も残存した慣習と農家間の貧富の格差が、事件の背景として指摘されている。
経過
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1953年12月12日
昭和28年事件・事故 三男の男性が猟銃で家族7人を射殺、直後の火災で姪1人も死亡
実家を追われ困窮していた三男の男性が、物置小屋の猟銃を用いて家族7人を射殺。発砲から約30分後の火災で幼い姪1人も焼死した。
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1956年4月5日
昭和31年判決 青森地裁弘前支部が殺人について無罪、住居侵入罪のみ有罪の判決
心神喪失の疑いが強いとして殺人・尊属殺人は無罪、物置小屋への住居侵入罪のみ懲役6か月・執行猶予2年とした。
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1958年3月26日
昭和33年公判 仙台高裁秋田支部が検察の控訴を棄却
検察側の控訴を棄却し、一審判決を支持した。
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1958年4月10日
昭和33年その他 検察が上告せず無罪が確定
検察が上告期限までに上告しなかったため、殺人罪についての無罪が確定した。
出典・公的資料
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その他
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「青森県新和村一家7人殺害事件」事件JP、2026年9月8日閲覧。https://jiken.jp/cases/1953-aomori-shinwamura-family-murder/
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更新履歴
- 2026年8月18日 初版公開
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