原敬暗殺事件

発生日 1921年11月4日(大正10年)
経過 発生から104年10か月 1922年1月1日の確定から104年8か月
発生場所 東京都 東京駅(丸の内南口、当時の乗車口)
種別 テロ・無差別襲撃
状態 終結
被害 死者 1人  負傷者 0人
1921年(大正10年)11月4日、東京駅の乗車口(現在の丸の内南口)で、内閣総理大臣・原敬が、鉄道院山手線大塚駅の転轍手・中岡艮一(当時19歳)に短刀で刺殺された事件。現職の内閣総理大臣が暗殺されたのは憲政史上初めてで、原の死去により立憲政友会内閣は総辞職し、後継には高橋是清が就いた。中岡は殺人罪で起訴され死刑を求刑されたが、東京地裁で無期懲役の判決を受け、控訴審・上告審でも維持されて確定した。その後3度の恩赦を受け、1934年(昭和9年)に出所している。
原敬暗殺事件を象徴する概念イラスト
※イメージ画像(生成AIによる概念イラストであり、実際の現場・関係者を写したものではありません)
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事件の経過

1921年(大正10年)11月4日午後7時25分ごろ、東京駅の乗車口(現在の丸の内南口)で、立憲政友会京都支部大会に出席するため列車に乗り込もうとしていた内閣総理大臣・原敬が、鉄道院山手線大塚駅の転轍手・中岡艮一(当時19歳)に短刀で右胸を刺された。刃は右肺から心臓に達し、原はほぼ即死の状態だった。中岡はその場で取り押さえられ現行犯逮捕された。現職の内閣総理大臣が暗殺されたのは、日本の憲政史上初めてのことだった。事件を受け同日深夜に臨時閣議が開かれ、政府として対応が協議された。国立国会図書館が所蔵する、松本剛吉から平田東助にあてた同日付の電報には、事件発生直後の混乱した政界の様子が記されている。
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加害者の人物像と犯行の動機

中岡艮一は栃木県出身で、足尾銅山の技師の子として生まれた。高等小学校を中退後、印刷工場の見習いを経て、1919年(大正8年)11月から鉄道院山手線大塚駅の駅員となり、転轍手を務めていた。取り調べに対し中岡は、原内閣が政商・財閥中心の政治を行っているとの反感、野党が提出した普通選挙法案に原内閣が反対したことへの不満、上司の反政府的な言動からの影響などを動機として供述した。事件の37日前には、右翼活動家・朝日平吾による安田財閥創設者・安田善次郎の暗殺事件が起きており、この事件が中岡に影響を与えたとの指摘もある。もっとも事件後の新聞報道では、結婚を望んでいた女性との生活を実現できないことへの絶望感が動機の根底にあったとする見方も伝えられており、犯行の背景は単純な政治的動機にとどまらないとの指摘がある。

捜査・裁判の経過

中岡は殺人罪で起訴され、検察は死刑を求刑したが、東京地方裁判所は無期懲役を言い渡した。判決は東京控訴院、大審院でも維持され、無期懲役が確定した。この裁判は異例の速さで進められ、取調べの調書などもほとんど残されていないなど、経過の詳細が乏しいことで知られる。無期懲役の確定後、中岡には3度にわたる恩赦による減刑が行われ、1934年(昭和9年)に出所した。現職首相を殺害した事件としては、服役期間が異例に短かったといえる。

政界への影響と憲政史における位置づけ

原の死去に伴い立憲政友会内閣は総辞職し、後継の内閣総理大臣には高橋是清が就任した。現職首相が暗殺されるという前代未聞の事態は政界に大きな衝撃を与え、同年9月の安田善次郎暗殺事件とあわせて、大正末期から昭和初期にかけて相次ぐ要人テロ・クーデター未遂事件の先駆けと位置づけられている。原は「平民宰相」と呼ばれ、衆議院に議席を持つ初の首相として本格的な政党内閣を率いており、その死は政党政治の危うさを象徴する出来事として、後の五・一五事件・二・二六事件に至る一連の政治的暴力の系譜の起点としてしばしば語られる。

中岡艮一のその後

出所後、中岡は満洲に渡り陸軍司令部に勤務した。獄中では回想録『鉄窓十三年』を執筆し、服役中の内面の変化や自身の政治的信条の形成過程をつづっている。1937年にはイスラム教に入信し、1941年に結婚したことが伝えられている。戦後は日本に帰国し、1980年に77歳で死去した。首相暗殺という重大事件の実行者でありながら、出所後に特段の政治活動を行った記録は残っていない。

審理・経過の流れ

  1. 事件・事故 1921年11月4日
  2. 逮捕 1921年11月4日 +0日
  3. 判決 1922年 +58日

経過

  1. 1921年11月4日
    大正10年

    事件・事故 原敬、東京駅で中岡艮一に刺殺される

    内閣総理大臣・原敬が東京駅の乗車口で短刀に刺され、ほぼ即死の状態だった。死者1人。

  2. 1921年11月4日
    大正10年

    逮捕 中岡艮一を現行犯逮捕

    犯行直後、その場で取り押さえられ逮捕された。

  3. 1922年
    大正11年

    判決 無期懲役の判決が控訴審・上告審を経て確定

    検察は死刑を求刑したが、東京地方裁判所は無期懲役を言い渡した。判決は東京控訴院・大審院でも維持され確定した。

    東京地方裁判所

  4. 1934年
    昭和9年

    その他 3度の恩赦により出所

    無期懲役の確定後、3度にわたる恩赦による減刑を受け、1934年(昭和9年)に出所した。

出典・公的資料

一次資料 3件 判決文・白書・調査報告書・法令など、原典にあたれる資料を掲載しています。

  • 調査報告書
    国立国会図書館
    事件の発生日時・場所・犯人・歴史的意義、および事件当日の一次資料(松本剛吉電報)の所在を確認
  • 調査報告書
    国立国会図書館
    原敬の経歴と暗殺の年月日を確認
  • 調査報告書
    国立国会図書館憲政資料室
    事件当日の閣僚の日記記述から、暗殺の時刻(午後7時25分)と当日の政界の動きを確認
  • その他
    コトバンク(20世紀日本人名事典・世界大百科事典ほか)
    裁判の量刑(無期懲役)・恩赦の回数・出所年(1934年)を確認
  • その他
    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    事件の経過、裁判記録が乏しい点、後継内閣の詳細を確認
  • その他
    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
    加害者の生い立ち・出所後の経歴(満洲勤務、改宗、死去年)を確認

関連する法律用語

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レポート・記事などで本ページを参照する際は、以下の表記をご利用ください。

「原敬暗殺事件」事件JP、2026年9月8日閲覧。https://jiken.jp/cases/1921-hara-takashi-assassination/

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更新履歴

  • 2026年9月2日 初版公開

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