大津事件 通称: 湖南事件
結末 1891年5月、大審院が巡査の男に通常謀殺未遂罪で無期徒刑の判決を言い渡した。男は同年、収監先で死亡
| 発生日 | 1891年5月11日(明治24年) 1891年(明治24年)の事件 / 5月11日に起きた事件 |
|---|---|
| 経過 | 発生から135年5か月 |
| 発生場所 | 滋賀県 大津市(現在の京町通り) |
| 種別 | テロ・無差別襲撃 |
| 状態 | 判決確定 |
| 被害 | 死者 0人 負傷者 1人 |
- 戦前・戦中の政治事件とクーデター政府がロシアへの配慮から死刑適用を求めたのに対し、大審院が法にもとづく判断を貫き、司法権の独立をめぐる近代日本法学史上の重要な先例となった。
1891年(明治24年)5月11日、日本を訪問中のロシア帝国皇太子ニコライが、滋賀県大津町で警備の巡査に切りつけられ負傷した事件。司法権の独立をめぐる近代日本法学史上の重要な先例となった。
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事件の経過
1891年5月11日、日本を親善訪問していたロシア帝国皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ(後の皇帝ニコライ2世)は、琵琶湖遊覧を終えて人力車で滋賀県大津町の市街を通行していた。その際、沿道を警備していた滋賀県警察の巡査・津田三蔵が、突然サーベルで皇太子の頭部に斬りつけた。皇太子は軽傷を負ったが、随行者の対応もあり一命に別状はなかった。
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司法権の独立をめぐる攻防
津田は、皇太子の来遊が日本侵略の準備であるとの噂を信じ、単独で犯行に及んだとされる。事件発生後、政府内ではロシア帝国の報復を恐れ、皇族に対する犯罪を定めた大逆罪を適用して津田を死刑にすべきだとする圧力が強まった。しかし、大審院長の児島惟謙は、大逆罪の規定は外国の皇族には適用されないとして、通常の謀殺未遂罪で裁くべきだと主張し、政府の介入に抵抗した。
判決とその後の意義
5月27日、大審院は津田に対し、通常謀殺未遂罪の最高刑である無期徒刑(無期懲役に相当)の判決を言い渡した。津田は同年、収監先の北海道釧路の集治監で死亡した。この事件は、行政権からの圧力に屈せず司法の独立を守った先例として、「護法の神様」と称された児島惟謙とともに、日本の近代法学史・三権分立の歴史において繰り返し語り継がれている。
国際関係への影響
事件発生時、ロシア帝国の艦隊が神戸港に停泊しており、日本国内では武力による報復を懸念する声が強まっていた。明治天皇自らが京都からロシア皇太子の見舞いに駆けつけるなど、政府は事態の沈静化に全力を挙げた。皇太子の帰国後、日露関係は当面の危機を回避したが、事件は日本の対外的な立場の脆弱さを浮き彫りにした。
教科書に残る「護法の神様」
児島惟謙が政府の圧力に抗して法の適正な適用を貫いたとされるこの逸話は、後年「護法の神様」と呼ばれ、日本の学校教育における司法権の独立の重要性を説明する代表例として、今日に至るまで教科書等で繰り返し取り上げられている。
大津事件と警察官の処遇
犯行に及んだ津田三蔵はもともと西南戦争にも従軍した経歴を持つ巡査であった。事件を機に、皇族や国賓の警備体制の見直しが進められ、要人警護のあり方に関する教訓を残した。
経過
-
1891年5月11日
明治24年事件・事故 ロシア皇太子が巡査に切りつけられ負傷
-
1891年5月27日
明治24年判決 大審院が津田三蔵に無期徒刑の判決
大審院
出典・公的資料
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「大津事件」事件JP、2026年10月27日閲覧。https://jiken.jp/cases/1891-otsu-incident/
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更新履歴
- 2026年9月23日 アジア歴史資料センター(国立公文書館)の解説を出典として追加
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