事件一覧
当サイトに収録している事件を、発生日の新しい順に一覧で確認できます。件数を絞り込みたい場合は、下の「年代」「地域」「種別」「状態(未解決・捜査中・公判中・判決確定・終結)」から条件を選んでください。 特定の日付や年代から探したい場合は日付から探す・年表から探す、地図上で都道府県別に探したい場合は地図から探すもあわせてご利用いただけます。
508 件が見つかりました
-
伊勢湾台風
1959年(昭和34年)9月26日夕方に和歌山県潮岬の西に上陸した台風第15号は、伊勢湾に観測史上最高の高潮をもたらし、愛知・三重両県を中心に死者4,697人・行方不明者401人、計5,098人の犠牲者を出した。台風による犠牲者としては明治以降最大である。名古屋港では潮位が3.89メートルに達し、堤防は220か所、33キロ近くにわたって決壊した。この災害を契機に、防災行政を総合的に進めるための災害対策基本法が1961年に制定され、伊勢湾沿岸では伊勢湾台風の潮位を前提とした高潮対策が進められた。
-
宮森小学校米軍機墜落事故
1959年(昭和34年)6月30日、沖縄県石川市(現・うるま市)の宮森小学校に、整備不良で操縦不能となった米軍のジェット戦闘機が墜落した事故。児童11人を含む18人が死亡し、210人が負傷した。
-
長崎国旗事件
1958年(昭和33年)5月2日、長崎市の浜屋百貨店4階で開かれていた日中友好協会長崎支部主催の中国切手・切り紙展覧会で、右翼団体に所属する28歳の男が会場に掲げられていた中華人民共和国国旗(五星紅旗)を引きずり降ろした。日本政府は中華人民共和国を国家承認していなかったため、外国国章損壊罪は適用されず、男は器物損壊の容疑で書類送検された後、軽犯罪法違反で科料500円の略式命令を受けた。中国側は日本政府の対応を強く批判し、5月9日に対日貿易の中止を声明、以後約2年半にわたり日中間の貿易が途絶えた。のちに公開された台湾側の外交文書により、在長崎の中華民国領事館と右翼団体の連絡が事件の背景にあったことが明らかになっている。
-
ジラード事件
1957年(昭和32年)1月30日、群馬県相馬が原演習場で、空薬莢拾いのため立ち入った日本人主婦(46歳)が、演習中の在日米陸軍ウィリアム・S・ジラード三等特技兵に背後から空薬莢を発射されて死亡した。日米行政協定に基づく裁判権をめぐって日米間で外交問題化し、米側が裁判権を行使せず身柄を日本側に引き渡したため、日本の裁判所で審理された。前橋地方裁判所は1957年11月19日、傷害致死罪でジラードに懲役3年・執行猶予4年の判決を言い渡し、確定した。1991年には、身柄引き渡しの見返りに量刑を軽くする日米間の申し合わせがあったことが公開文書で明らかになった。
-
六軒事故
1956年(昭和31年)10月15日夜、三重県松阪市の参宮線六軒駅で、信号確認を誤った下り快速列車が安全側線に進入して脱線し、20秒後に上り快速列車が衝突した事故。修学旅行中の高校生を含む42人が死亡、94人が負傷し、事故を機に自動列車停止装置(ATS)の全国導入が進んだ。
- スポンサーリンク
-
水俣病
1956年(昭和31年)5月1日、熊本県水俣市のチッソ(当時は新日本窒素肥料)水俣工場附属病院の院長が、原因不明の神経疾患の患者が入院したことを水俣保健所に報告した。これが水俣病の「公式確認」である。原因は同工場の排水に含まれたメチル水銀化合物に汚染された魚介類で、政府が原因を認めたのは12年後の1968年だった。被害は不知火海沿岸に広がり、公害健康被害補償法による被認定者は熊本・鹿児島両県で2,284人(2026年1月末時点、環境白書の県別数値の合計)に上る。刑事裁判でチッソの元社長らの有罪が確定し、2004年には最高裁が国と熊本県の責任も認めた。
-
茂尻炭鉱ガス爆発事故
1955年(昭和30年)11月1日、北海道赤平市の茂尻炭鉱(雄別炭礦茂尻鉱業所)で坑内のガス爆発が発生し、死者60人、負傷者17人を出した事故。同炭鉱では1935年にも95人が死亡する爆発事故が起きている。
-
森永ヒ素ミルク中毒事件
1955年(昭和30年)、森永乳業徳島工場で製造された粉ミルクに、乳質安定剤として加えた第二燐酸ソーダを通じてヒ素が混入し、西日本を中心に粉ミルクを飲んだ乳児が中毒を起こした事件。8月24日に岡山県から厚生省へ報告され、原因が公表された。厚生省の1956年6月の発表では被害者は12,131人、うち死者は130人。一度は「後遺症はない」とされたが、14年後の追跡調査で被害が続いていることが明らかになり、刑事裁判では差戻し後に工場の製造課長の有罪が確定した。1974年には救済にあたる財団法人ひかり協会が設立された。
-
墨田区花火問屋爆発事故
1955年(昭和30年)8月1日、東京都墨田区厩橋で玩具用花火の卸問屋が経営する花火工場の倉庫が爆発し、18人が死亡、80人以上が重軽傷を負った。周辺の13棟385坪が全焼し、半径300メートル以内の建物にも窓ガラスや屋根瓦の被害が及んだ。
-
橋北中学校水難事件
1955年7月28日、三重県津市立橋北中学校の水泳訓練中、中河原海岸(文化村海岸)で女子生徒約100人が一斉に溺れ、36人が死亡した。校長・教頭・体育主任の3人が業務上過失致死罪で起訴され、津地方裁判所は執行猶予付きの禁錮刑を言い渡したが、名古屋高等裁判所は女子生徒らを押し流した異常な流れを予見不可能な「不可抗力」と認定して無罪を言い渡し、検察が上告せず確定した。
-
紫雲丸事故
1955年(昭和30年)5月11日午前6時56分、濃霧に包まれた香川県高松港沖で、日本国有鉄道の宇高連絡船「紫雲丸」と貨車運航船「第三宇高丸」が衝突し、紫雲丸が沈没して乗客乗員168人が死亡・行方不明となった。犠牲者のうち108人は4つの小中学校の修学旅行の一行で、児童・生徒だけで100人を数えた。前年の洞爺丸事故に続く国鉄連絡船の大惨事として社会に衝撃を与え、高等海難審判庁は両船船長の職務上の過失を認定。濃霧による欠航の多発は、のちの瀬戸大橋建設の機運を高める一因ともなった。
-
洞爺丸事故
1954年(昭和29年)9月26日夜、台風15号(洞爺丸台風)による強風の中、青函連絡船「洞爺丸」が北海道・函館港沖の七重浜沖合で転覆・沈没した事故。乗員乗客1314人のうち1155人が死亡・行方不明となり、日本海難史上最悪の惨事となった。この事故を契機に、本州と北海道を結ぶ青函トンネルの建設構想が具体化した。
-
メイストーム海難事故
1954年(昭和29年)5月9日から10日にかけて急速に発達した低気圧により北海道近海で暴風が発生し、サケ・マス漁の漁船が多数遭難、361人が死亡・行方不明となった海難事故。
-
青森県新和村一家7人殺害事件
1953年(昭和28年)12月12日未明、青森県中津軽郡新和村小友(現・弘前市)のりんご農家で、実家を追われ困窮していた三男の男性(当時24歳)が猟銃で父・長兄夫婦・祖母・伯母・甥姪ら7人を射殺した事件。直後に発生した火災で幼い姪1人も焼死し、死者は計8人にのぼった。刑事裁判では犯行当時の心神喪失が認定され、殺人罪は無罪が確定した。
-
徳島ラジオ商殺し事件
徳島市のラジオ商店主が殺害され、店主の内縁の妻が誤って有罪とされたが、死後の再審で日本初の無罪が確定した事件。
-
昭和28年7月南紀豪雨
1953年(昭和28年)7月、梅雨前線の活動により九州から東北にかけて大雨となり、特に紀伊半島では17日から18日を中心に期間降水量が700ミリを超える豪雨となった。和歌山県では有田川・日高川などが決壊・氾濫し、有田川上流の花園村では大規模な崩壊で天然ダムが生じた。和歌山県内だけで死者・行方不明者は1,000人を超え、被災者は当時の県人口の約4分の1にあたる約26万人に達した。7月16日から25日までの一連の大雨による全国の被害は、死者713人・行方不明者411人・負傷者5,819人とされる。
-
昭和28年西日本水害
1953年(昭和28年)6月25日から29日にかけて、梅雨前線による記録的豪雨が九州北部を中心に西日本を襲い、死者759人・行方不明者242人を出した大水害。熊本市街地の広範囲が浸水するなど、戦後最悪級の被害となった。
-
吹田・枚方事件
1952年(昭和27年)6月24日から25日にかけて、朝鮮戦争開戦2周年を機に大阪府北部で起きた二つの公安事件。枚方市では24日未明に旧陸軍工廠の枚方製造所で水圧ポンプが時限爆弾で爆破され、25日未明には無関係の民家が火炎びんで襲撃された(枚方事件)。吹田市一帯では労働者・学生・在日朝鮮人らのデモ隊が国鉄吹田操車場に入り、警察官と衝突した(吹田事件)。吹田事件は血のメーデー事件・大須事件と並ぶ戦後三大騒擾事件の一つとされ、111人が騒擾罪で起訴されたが、1972年3月17日の最高裁決定で騒擾罪の不成立が確定した。
-
菅生事件
1952年(昭和27年)6月2日、大分県の菅生村駐在所が爆破され、日本共産党員5人が逮捕・起訴された事件。控訴審の過程で、偽名で被告人らに接近していた人物が現職の警察官だったことが判明し、駐在所爆破については1958年に福岡高裁が全員を無罪とし、1960年に最高裁で確定した。一方、ダイナマイトの不法所持などの事実では被告人の一部が有罪とされ、潜入していた警察官も爆発物取締罰則違反で起訴されて有罪(刑の免除)となった。
-
辰野事件
1952年(昭和27年)4月30日未明、長野県上伊那郡の辰野警察署や伊那税務署など複数の官公庁施設が、ダイナマイトや火炎瓶で相次いで襲撃された。長野県警察は日本共産党員13人を逮捕・起訴し、1960年の第一審・長野地方裁判所飯田支部は全員を有罪としたが、1972年12月1日、東京高等裁判所は証拠不十分として逆転無罪を言い渡し、検察も上告を断念して無罪が確定した。発生から確定まで20年7か月を要した、戦後の冤罪事件の一つとされる。
出典: https://jiken.jp/cases/?page=21(2026-10-30 取得)/ 事件JP