雲仙普賢岳噴火災害(大火砕流)
| 発生日 | 1991年6月3日(平成3年) |
|---|---|
| 経過 | 発生から35年1か月 |
| 発生場所 | 長崎県 島原市(水無川流域) |
| 種別 | 災害 |
| 状態 | 終結 |
| 被害 | 死者 40人 負傷者 9人 |
1991年(平成3年)6月3日午後4時8分ごろ、長崎県島原市の雲仙普賢岳で大規模な火砕流が発生し、報道関係者や消防団員、警察官、住民ら死者40人・行方不明者3人の計43人が犠牲になった。避難勧告区域内での取材活動中に多くの報道関係者が巻き込まれたことから、火山災害時の警戒区域運用のあり方が問い直された。
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火砕流の経過
長崎県の雲仙普賢岳は1990年11月17日、198年ぶりに噴火活動を再開した。1991年5月には山頂付近に溶岩ドームが出現して成長を続け、たびたび崩落しては火砕流を発生させていた。同年6月3日午後4時8分ごろ、成長した溶岩ドームの一部が大規模に崩落し、それまでで最大規模の火砕流が山麓の水無川流域を流下、報道各社の取材拠点や消防団の詰所などが集中していた通称「定点」と呼ばれる国道57号付近を襲った。火砕流は住民の避難が既に行われていた警戒区域内で発生したため、地元住民の犠牲は限定的だったが、取材や警戒業務のためにとどまっていた報道関係者16人、消防団員12人、警察官2人、火山学者3人、タクシー運転手4人など計40人が死亡、3人が行方不明となり、9人が負傷した。焼失した建物は住家49棟を含む179棟にのぼった。
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その後の対応と教訓
「定点」と呼ばれた取材拠点には、噴火の様子を撮影しようとする報道各社のカメラが集中しており、報道関係者が長時間とどまり続けたことが、周辺で警戒にあたっていた消防団員や警察官、住民に「ここにいれば安全だ」という誤った安心感を与えていた面があったとも指摘されている。この災害では、活発化する火山活動を継続的に取材・警戒する必要から、危険性を認識しながらも警戒区域内にとどまっていた人々が犠牲になった点が大きな教訓となった。噴火活動はその後も長期化し、大規模な土石流が繰り返し発生したため、建設省(当時)は無人化施工技術を導入するなど、警戒区域内でも作業員の安全を確保しながら砂防工事を進める体制を整えた。地元の島原市では、水無川沿いに導流堤を整備する復興事業が進められ、1994年2月には事業計画がまとめられた。噴火活動の沈静化後も、雲仙・普賢岳周辺では砂防ダムの建設や緑化事業が継続され、「定点」跡地は災害の教訓を伝える遺構として整備されるなど、火山災害への警戒と地域の安全確保の両立が長年の課題として取り組まれている。
経過
-
1991年6月3日
平成3年事件・事故 大火砕流が発生
死者40人・行方不明者3人、負傷者9人。
出典・公的資料
- その他
- 公的発表・広報
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「雲仙普賢岳噴火災害(大火砕流)」事件データベース jiken.jp、2026年7月29日閲覧。https://jiken.jp/cases/1991-unzen-fugendake-pyroclastic-flow/
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更新履歴
- 2026年7月17日 初版公開
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