別子大水害
| 発生日 | 1899年8月28日(明治32年) |
|---|---|
| 経過 | 発生から126年11か月 |
| 発生場所 | 愛媛県 新居浜市(別子銅山) |
| 種別 | 災害 |
| 状態 | 終結 |
| 被害 | 死者 513人 |
1899年(明治32年)8月28日、愛媛県の別子銅山を襲った台風による集中豪雨で大規模な土石流が発生し、山中だけで513人が死亡した。鉱山開発に伴う森林伐採・煙害による山地の荒廃が被害を拡大させた典型例とされる。
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災害の経過
1899年8月28日夜、愛媛県の別子銅山を台風が襲い、午後8時20分から9時までのわずか40分間に300ミリを超える集中豪雨が降った。銅山周辺の山地は、鉱山の燃料や建材とするための伐採や、製錬の際に発生する煙害の影響で樹木が枯死し、はげ山と化していた。荒廃した山肌に猛烈な豪雨が降ったことで、鉱山施設や谷筋の集落を土石流が襲い、山中だけで513人が死亡する大惨事となった。下流の新居浜市街地でも被害が及び、住宅の全壊・流失は122戸、半壊は37戸にのぼった。従業員とその家族が暮らす見花谷・小足谷地区の住宅群が土石流に飲み込まれ、多くの鉱山労働者とその家族が一度に犠牲となった。
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被害の背景
別子銅山では江戸時代から続く採掘と製錬により、周辺の森林が長年にわたり伐採・枯死しており、山地の保水力が著しく低下していた。この災害は、鉱山開発に伴う環境破壊が自然災害の被害を拡大させた典型例として、後年の研究でもたびたび取り上げられている。当時の支配人だった伊庭貞剛は、水害以前の1894年ごろから既に山地の荒廃に危機感を抱いて植林事業に着手しており、水害前年の1898年には組織として山林課を新設していたが、この大水害はその取り組みの重要性を改めて痛感させる出来事となった。産業の発展が地域住民の生活基盤を損ない、結果として大きな災害リスクを生み出していたという構図は、後世の公害・環境問題を考えるうえでも象徴的な事例とされている。日本近代化を支えた鉱山経営の裏側で、労働者とその家族が過酷な自然災害の危険にさらされていた実態を伝える出来事でもある。
その後の対応
経営していた住友は、被災した鉱山施設の復旧とあわせて、荒廃した山地の緑化・植林事業に本格的に着手した。一方で、水害で大きな被害を受けた山中の製錬施設については、災害リスクの低い海岸部の四阪島への集約・移転が加速することになった。植林事業は長期にわたって続けられ、現在の別子銅山跡地の緑豊かな景観にもその成果が受け継がれている。地元では毎年、犠牲者を追悼する慰霊式が営まれている。
経過
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1899年8月28日
明治32年事件・事故 台風による土石流が別子銅山を襲う
山中だけで死者513人。
出典・公的資料
一次資料 1件 判決文・白書・調査報告書・法令など、原典にあたれる資料を掲載しています。
- その他
- 調査報告書
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「別子大水害」事件データベース jiken.jp、2026年7月29日閲覧。https://jiken.jp/cases/1899-besshi-flood/
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更新履歴
- 2026年7月20日 初版公開
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