昭和南海地震 通称: 南海地震

発生日 1946年12月21日(昭和21年) 1946年(昭和21年)の事件 / 12月21日に起きた事件
経過 発生から79年10か月
発生場所 高知県 高知県沿岸部一帯(震源は潮岬南方沖)
種別 災害
状態 終結
被害 死者 1,330人
1946年(昭和21年)12月21日午前4時19分ごろ、和歌山県南方沖(潮岬南方沖)の南海トラフ沿い、深さ約24キロメートルを震源とするマグニチュード8.0の地震が発生した。四国から近畿・中部にかけて広い範囲が揺れ、土佐湾沿岸を中心に津波が襲来。気象庁の資料によれば全国の死者・行方不明者は1,443人にのぼり、うち高知県の死者・行方不明者は679人と最も多かった。高知平野では地盤沈下により約15平方キロメートルの田園が海面下に没し、水が引くまで半月を要した。終戦の翌年、復興途上の西日本を襲った震災である。
昭和南海地震を象徴する概念イラスト
※イメージ画像(生成AIによる概念イラストであり、実際の現場・関係者を写したものではありません)
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発生と地震の規模

1946年(昭和21年)12月21日午前4時19分過ぎ、潮岬南方沖78キロメートル、深さ24キロメートルを震源とする地震が発生した。南海トラフ沿いで繰り返し発生してきた海溝型地震のひとつで、気象庁マグニチュードは8.0、表面波マグニチュードは8.2、モーメントマグニチュードは8.4とされる。 揺れは西日本の広い範囲に及んだ。委託観測所での最大震度は6(烈震)で、四国、淡路島、瀬戸内海沿岸で観測された。気象庁管轄の測候所での最大震度は5(強震)である。ただし観測点の密度が現在とは比べものにならないほど低く、被害の実態から推定した震度はこれを上回る地域があった。高知は当時「震度5、ところにより震度6」と発表されている。 発生時刻が午前4時台の未明であったことは、被害を大きくする方向に働いた。多くの住民が就寝中であり、家屋の倒壊から逃れる余裕も、その後の津波から避難する時間も限られていた。
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津波の襲来

地震発生後まもなく、太平洋沿岸に津波が押し寄せた。最高の津波の高さは和歌山県串本町で6.57メートルとされる。高知県須崎では、安政南海地震の際の「津波は地震後すぐには来ない」という言い伝えがあったが、この地震では地震後10分も経たないうちに津波が襲来し、避難する余裕はほとんどなかった。大阪港にも約2時間後に津波が到達し、80センチメートルの潮位上昇が観測された。土佐湾は湾の形状から津波が集まりやすく、沿岸の集落が繰り返し被害を受けてきた地域である。

全国と高知県の被害

全国の被害は、気象庁の資料によれば死者・行方不明者が1,443人、負傷者が3,842人、住家の全壊が9,070棟にのぼった。死者1,330人・行方不明者113人・負傷者2,632人とする資料もあり、住家の全壊を11,506棟、半壊を21,972棟とする集計もある。集計の時点や対象範囲の違いによるものとみられ、資料によって数値に幅がある。 被害が最も大きかったのは高知県である。県内の死者は670人、行方不明者は9人で、全国の死者・行方不明者の半数近くを占めた。負傷者は836人、住家の全壊は4,865戸、半壊は9,073戸を数えた。高知市では地震による地盤沈下のために浸水した家屋が多く、年が明けても水が引かず、市の東部では交通手段として船が使われる日々が続いた。 被害の内訳を見ると、家屋の倒壊による圧死、津波による溺死、そして地盤沈下に伴う長期の浸水という3つの要因が重なっていることがわかる。とりわけ浸水は、直接の人的被害を生んだだけでなく、その後の生活再建を著しく困難にした。なお大阪府でも死者32人、負傷者46人、住家全壊234棟の被害が生じており、揺れの影響は震源から遠く離れた都市部にも及んでいる。

地盤の変動

この地震では、地殻の変動が広範囲で観測された。潮岬で0.7メートル、室戸岬で1.27メートルの隆起が生じた一方、須崎や甲浦では約1メートルの沈下が確認されている。プレート境界での急激なずれに伴って、陸側の地盤が場所によって上下逆方向に動いた結果である。 沈下の影響が最も深刻だったのは高知平野だった。地盤が沈み込んだことにより、約15平方キロメートルの田園が海面下に没した。単なる浸水ではなく地面そのものが海面より低くなったため、水は自然には引かない。排水が進んで水が引くまでには半月程度を要したと記録されている。 農地が失われることは、食糧事情が逼迫していた終戦直後の時期にあって、被災地の生活に直接響いた。地震による人的被害が収まったあとも、地盤変動の影響は長く残った。なお、この地震の最大余震は約1年5か月後の1948年4月18日に和歌山県南方沖で発生したマグニチュード7.0の地震である。

戦後復興期の震災として

昭和南海地震は、終戦からわずか1年4か月後に発生した。都市の多くが空襲で焼かれ、住宅も物資も不足していた時期であり、災害救助にあてられる資源は限られていた。この地震の2年前にあたる1944年(昭和19年)12月7日には東南海地震が発生しており、戦中戦後の短い期間に南海トラフ沿いの地震が連続して起きた形になる。 南海トラフでは、東側の震源域と西側の震源域が同時に、あるいは時間差を置いて動く現象が繰り返されてきた。昭和東南海地震と昭和南海地震の2年という間隔は、この連動性を考えるうえで重要な事例とされている。 昭和天皇は1947年6月7日に和歌山県へ行幸し、被災地を視察した。 現在、南海トラフ沿いでは次の地震への備えが進められている。昭和南海地震で観測された津波の到達時間の短さ、地盤沈下による長期浸水、そして被害が高知県に集中したという事実は、被害想定や避難計画を組み立てるうえでの基礎的な記録となっている。

経過

  1. 1946年12月21日
    昭和21年

    事件・事故 潮岬南方沖を震源とするマグニチュード8.0の地震が発生

    午前4時19分過ぎに発生。四国・淡路島・瀬戸内海沿岸で最大震度6を観測し、土佐湾沿岸を中心に津波が襲来した。

  2. 1947年6月7日
    昭和22年

    その他 昭和天皇が和歌山県に行幸し被災地を視察

    地震発生から約半年後の視察だった。

出典・公的資料

一次資料 2件 判決文・白書・調査報告書・法令など、原典にあたれる資料を掲載しています。

  • 調査報告書
    気象庁 大阪管区気象台
    気象庁カタログによる震源・規模・深さ、全体の死者・行方不明者1,443人・負傷者3,842人・住家全壊9,070棟(日本被害地震総覧)、大阪府の被害を確認。被害分布図は中央気象台「南海道大地震調査概報」(1947年5月1日発行)に基づく。
  • 調査報告書
    四国災害アーカイブス(四国地方整備局ほか)
    四国地方における被害の記録を参照した。
  • その他
    ウィキペディア日本語版
    震源・規模・震度分布・津波高・全国および高知県の被害・地盤変動の数値を参照した。

さらに調べるには

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日頃の備え

大きな地震では、電気・水道・物流が数日以上止まることがあります。最低3日分、できれば1週間分の備えが勧められています。

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「昭和南海地震」事件JP、2026年10月27日閲覧。https://jiken.jp/cases/1946-showa-nankai-earthquake/
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更新履歴

  • 2026年9月28日 高知県の死者数の表記(死者679人→死者・行方不明者679人)、住家被害の数値、津波到達の記述(串本→須崎)を訂正し、出典で確認できない数値を削除
  • 2026年8月20日 初版公開

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